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タグ:臨床心理学

あるところで、「認知行動療法、ブリーフセラピー、ペアレント・トレーニングは、どれもアドラーと似ている。そういうときに、あえてアドラーを言う意義はあるのだろうか」という質問があった。

なるほど、たしかに理論や技法は、すでにオリジナルな部分は、ほとんどなくなってしまったといっても過言ではない感はあるが、おそらく思想の分野、つまり、共同体感覚はまだ「被っていない」ところのはずである(本当は、早期回想もそうなのだろうけど)。

昨今の心理療法では、(「不適切」な「認知」を変容することなどを通して)「不適切」な「感情」や、「不適切」な「行動」がゼロになれば、とりあえずは、それで良しみたいなところがある(多くの場合は、それで十分、「適応的」になると思われる)。

アドラー心理学的には、それだけでは、×になる場合もあるところが大きな違いのような感じがしている(そういうことになる場合を書いてもいいのだが、ここでは控える)。

それは、先ほど述べた共同体感覚から派生してきていると思われる責任(あるいは役割役目)という概念がなせる技である。

P.S.

ちなみに、早期回想は、スキーマ・ワーク、共同体感覚は、ポジティヴ心理学と「若干」被り始めているので、ちょっとアレ(ドレ?!)である。

【届いた】日本心理臨床学会第27回大会プログラム

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7.29 が、届いた。今回は、自主シンポジウムに話題提供者として参加することになっている。前回、1日1事例研究を見て帰ってしまった「前科」からすると、「躍進」である。

ところで、この学会は、先進的な人たちからは、ちょっと「ピー」に見られているフシがある。

ただ、現場から上げるのであれば、実証云々は置いておいても、キラリと光る仮設やモデルを提出することは可能なはずなので、その辺、期待できるのではないかと思っているしだいだ(実証は他人任せという手もありかも)。

アドラー心理学は、認知行動療法やブリーフセラピーの台頭で、今やオリジナリティーが、ほとんど無くなってしまったといわれている。残っているとすれば、早期回想と共同体感覚くらいだとも言われている。

いろいろなセラピーの要素を先駆けていたといわれるアドラー心理学であるとすれば、次の台頭するセラピーは、おそらく共同体感覚の周辺に出現してくるのではないだろうか。

多分、これまでタブー視されてきた価値観をセラピーに持ち込むタイプになってくる可能性があるのではないだろうか(露骨ではないにしても)。

その片鱗は、ポジティヴ心理学から、臨床心理学へと流入してくる可能性があると睨んでいるが、当たるかどうかは定かではない。

 

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カウンセリング・幻想と現実〈上巻〉理論と社会

 

 

 


カウンセリング・幻想と現実〈下巻〉生活と臨床

 

 

 

が、なぜかAmazonで販売されていた。中古かなと思いきや新品のようだ。ずいぶん前に、注文したことがあったのだが、品切れで手に入らなかった本だ。再販になったのかな。これでようやく読めるというものである。

 

いまちょっと関心があるのが「アドラー心理学」というナラティブなのだが、「あなたにとってアドラー心理学とはなんですか?」と尋ねたら、人々はどう答えるだろう。

ふつう、「アドラー心理学のおかげで人間関係が改善して」とか「子どもとのつき合い方がわかりました」とか言うのだろうと思う。

それはそれで結構なのだが、私はたぶんそんな風に答えない。技法としてのアドラー心理学にほとんど関心がない。そうではなくて、理論としてのアドラー心理学に関心がある。アドラー心理学は参照枠を与えてくれる。

(中略)

いつだって、どんなときだって、私が決めることができる。…これが私のアドラー心理学だ

注:色づけは私

「ナラティブの時代」(野田俊作の補正項 )より

わたしは、色づけをしたところが、まったくの同感だったりする。

いつだって、どんなときだってのくだりは、「自己決定性」「個人の主体性」という概念の内容だ。

ここは、他の臨床心理学には、あまり見られないところなのではないだろうか。

無意識の「犠牲」、育てられ方の「犠牲」、認知の「犠牲」、感情の「犠牲」、性格の「犠牲」、あげくは、脳の「犠牲」と捉える風潮が強い中、この概念は、(カウンターバイアスとしても)けっこう光るものなのではないかとみている。

精神医学講義

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今日は、某所にて、精神医学の話をしてくる。パワーポイントで資料を作ったので、ド忘れすることはないだろうけど、問題は、質のいい話ができるかどうかである。コミュニケーションワークショップ(もどき)以来なの「講義」なので、ちょっと緊張である。

3.22

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セリグマンの本を読んでいて、ふと思ったのだが、ある「障害」を測定する基準なり尺度があったとしよう。一方で、ある「強み」を測定する基準なり尺度があったとする。

これまでは、「障害」を測ることしかしなかったため「強み」がない「かのように」映っていたが、実は、測定していない「強み」の方が強い(基準を満たすことが多い、尺度得点が高い)場合を、かなり見落としていた可能性が高いのではないだろうか。

となると、テストバッテリーは、「障害」を発見するテストではなく、「強み」を発見するテストを行う必要があるということかもしれない。

また、それは、テストに限らず、「見立て」もまた同様だろう。

 

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異常心理学
を訳あって読んでいるのだが、実に面白い。いろんな知見が散りばめられていて、いい勉強になっている。古本で買ってはいたのだが、読んでいなかった(*_*)。これは、確か、次の版のも出てるのではないだろうか。

テキスト臨床心理学 5 (5)←やっぱり、異常心理学ってタイトルじゃ売れなかったんですかね(^_^.)。

 

 

 

財布に余裕があれば、買ってみたいところではある。

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棚をゴソゴソしていたら、

こころが晴れる本―もっと気楽に生きるための心理学

「臨床心理学」という近代―その両義性とアポリア
が目にとまった。再読してみようと、思い立ち、まずは前者を読み始めた。私が(相当)影響を受けた人物の一人である頼藤和寛先生の本だ。

途中まで読んだが、さすがといったところである。「事実」を見据えることで、「楽しくなる」「気楽になる」という、微妙にパラドキシカルな感覚が味わえるのは、先生の本だけなのではないだろうか。

引き続き読み続けるとしよう。

 

カテゴリーとディメンジョンという話がある。類型論と特性論みたいなものだ。○○障害とかいうのは、前者である。

まあ、そうカテゴライズするのもいいが、意識しなければならないのは、そのディメンジョンである。カテゴリー化すると、ディメンジョンが、カテゴリーのバイアスを受けて消えてしまいがち(または、ないものが付加されがち)なので、注意した方がいいように思える。

 

「心の専門家」はいらない (新書y)
を再読している。

今読んでも、なるほど、と思わせる記述が多い。

私は、一応、(時々)心理臨床にも携わっているが、

「どっぷり」ではないので、「理解」可能なのかもしれない。

ちなみに、「心理リテラシー」として、右カラムの下の方に

いろいろ挙げているので、その辺りに興味のある方は

どれかいかがでしょうか(ちなみに、アフェリエイトはしていません)。

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生きる意味を求めて (アドラー・セレクション)
のほぼ全章を読了した。第15章「人生の意味」から読み始めたのだが、久しぶりの翻訳本のためか、イマイチ頭に入っていかなかったので、訳体に慣れが生じた今の時点で、もう一度読み直してみようと思っている。

個人心理学は、正当でない欲求は、共同体感覚に違反すると認めなくてはならず、抑圧によってではなく、共同体感覚を増すことによって消すことができるということを教える。

上記本より

注:色づけは私

ここに何やら思うころがありました。全体的な感想は、もう一度、第15章を読んだあとで、また書くことにする。

近年の1つの考え方は、心理学は、「他者を理解し、予測し、制御する」ためのものではなく、「自分を理解し、予測し、制御する」ためのものであるということである。

注>色づけは私

心理測定法への招待より

これは、言いえて妙ですね。私が「完全主義」や「個人心理学(アドラー心理学)を学ぶのが好きなのは、その辺りにも目的があるのかも知れません。

認知行動療法カウンセリング第19回初級ワークショップ【受講証届く】

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12.21

 

 

 

 

 

 

 

受講証が届いた。

後は「洗足ストレスコーピング・サポートオフィス」に

15000円を振り込むだけだが、

とりあえず確保できたので、ホッとしている。

DVD 認知療法・認知行動療法カウンセリング 初級ワークショップ

素因×ストレス=症状

ライフスタイル×ライフタスク=行動

は、言葉違えど似たようなものである。

心理学は大概「自分のせい」にしてことを収めるきらいがあるが、見落とされているのは、いや、正確にいうと、扱いにくいので、あえて無視しているのは、「環境のせい」である。

実は、もうひとつ、「組み合わせのせい」というのがあるのだが、ただ、それを査定する手段が「今のところ」ない(誰か開発して欲しい)。

本来、この「組み合わせ」は、体感的に分かるはずなのだが、それを感じ難くしているのが、おそらく、「自己概念」であろう(見栄などが邪魔するのだろう。ある意味で、自己バイアス?!)。

逆にいえば、今の認知療法を、もう少し改良する形で、ここにアプローチする余地があるのかもしれない。

 

臨床心理学は、1902年(?!)、フロイトの水曜の会(木曜の会?!)から始まったとする説もある(→ほんとか?!)。とすると、それから約100年、いろいろな「天才」あちが、各々の「流派」を形成してきた。

昨今では、ミルトン・エリクソンが出たのを最後に「天才」が出ていないのではないだろうか。たまに言われるように、もしかすると、脳神経科学辺りから、臨床心理学の草創期のように、医学者(=脳科学者か?!)である「天才的」心理療法家が、なにやら(エビデンスに基づきまくりの)新しい理論を開発して、パラダイムシフトを引き起こすのかもしれない。

まあ、そのときまで、私は生きているかどうかは不明だとは思うが。

オプティミストはなぜ成功するか (講談社文庫)
を買ってきた。久しぶりに楽しい本を読んでいる感じだ。まだ前半しか読んでいないが、セリグマンが講演でティーズデイルに「反論」されるシーンなども出てきていたりする。その前のセリグマンの講演に対する「ビビリ」が告白されていて面白い。

この辺の正直さは、

〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら

 

 

 

の著者バーンズと似たものを感じました。バーンズも、自分のビビリ体験を正直に書いていたりする。ちないに、エイブラムソンって、セリグマンのゼミ生だったのですね。

ま、とにかく、読了したら、また感想をアップするのでお楽しみに。

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