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カテゴリ:エッセイ

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これは表現者,発信者の「定め」かと。

よく言われるように大人気のカレーやハンバーグでも「マイナス評価」を受ける場合があるわけで。

「マイナス評価」は,大学院,仕事,論文投稿,大学での授業などで散々受けてきたが,匿名性の高い大学の授業の評価がもっともダメージを受ける表現が入ってきていたように思う(「面白くない」と一言だけ書いてあったり「つまらない」とこれまた一言だけ書いてあったり)。

あれも難しいところで,平均点を大きく上回る評価項目があったとしても詳細を見ると必ず最低点をつけている者が何名かいる。

では,その最低点に向けて「改善」をすると,今度は良い点を付けた人にとっては「改悪」になるかもしれず。

また「無駄話が多い」というコメントがある一方で「雑談が面白い」というコメントもあったり。

どうやら全ての人を満足させることはできないというありふれた結論で終わる事案っぽいのだ。

なお,確かに何年もやっていると慣れが生じて多少気にしなくはなってくるのだが,それも完全ではないのが痛いところではある。

まあ,良い評価よりも悪い評価の方に注意を向けた方が生存上有利だったので,人間にデフォルトで備わってきた性質ということで諦めてはいるのだが(まあ,改良の機会もなる場合もあるしね)。

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のではないかと最近思っている。

どうも不平不満の多い者というのは,家以外で自分の価値を100として扱って欲しいという欲があるようだ。

しかし,100(!?)として扱ってもらえるのは,まあ,家の中くらいのものではないか。

家の外では,交換可能な存在でしかない,つまり自己価値は限りなく0に近いということだ。

ここを押さえておかないとストレスフルになるのではないかと思っているがどうだろう。

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私の周りにも小説家になりたいものや放送に携わりたいものなど色々なものが存在したが,いずれも語るだけで,行動には移せず,自称・しがないサラリーマンとなっている。

では,自称・しがないサラリーマンで不幸かというと,そうでもなさそうで,なかなかに幸せそうである。

おそらくであるが,どの仕事でもある程度こなせるシステムが完成しており,その中に入ると,ある程度仕事ができるようになり,仕事ができるとポジティブなフィードバックがあり,例の貢献感や所属感が生まれるのだろう。

ただ個人的に興味があるのは,出世レースの展開だ。

ある程度仕事ができるシステムが整っているとはいえ,その中でどうしても,できるできないの序列はできると思われる。

そうなると,同期に先を越されたり,後輩に追い抜かれたりすることも出てくるだろう。

そういうときどう過ごすのかと思うのだが,これも予想であるが,色々見ていると,たぶん,どこかで諦めが入り,出世云々もどうでも良くなるのではないかとみている。

要するにどう転んでも,年をとるに連れてほどほどの幸せになってくるのではないか(おそらく老化によるパワーダウン(強欲の低下)が大きいとみている)。

何だかそう思うのだが,実際のところはどうなんだろう。

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明日がどうやら国立大学の二次試験(って今はいうのかな?)みたいだ。

そこでふと思い出したのが,私の人生の(主観的には唯一の)やり残しだ。

それは熊本大学に受かることができなかったことだ。

本来は,そこで受かっていれば地元で教員(中学校理科)をやって一生を終えていたはずなのだが,その後,当時まったく予想していなかった人生になってしまっている。

もちろん,後悔しているわけではないのだが(世の中どうにもならないことがあるという感覚を学べた),あの目標に向かう感覚とか,掲示板に番号があったりしたときの嬉しさ(これは予想だけど)を,もう一度味わってみたいという想いはある。

老後に熊本大学に再挑戦しようと企んでいるのは内緒(って書いているけど)だ。

ただそのときもセンター試験が継続していれば良いのだが・・・。

2020年に変わるとかいう話もあり・・・。

それだと何だかリベンジにならないんだよなぁ・・・。

追伸
東大の院に受かったから別に良いではないかということも言われたのだが,どう考えても熊本大学(学部)の方が遥かに難しい。これは院を受験したことがある人なら信じてもらえると思うのだが。科目の数と質が全然違うのだ。

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これもほんとそうだなぁ。

行動することの良いところは,結果のフィードバックがあることだろう。

「成功」も「失敗」も結果であることにはかわりがない。

考えることは,そこにフィードバックがないのが行動と違うところなのだ。 

ただし,行動するには勇気が要るので,ある意味で,「考える」という劣等コンプレックスを創り出している場合もあると思われる。

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これは・・・。

深い。

可能性100%,困難0%

可能性0%,困難100%

という話はそうそうないので,可能性と困難の間にグラデーションがあるのが「真理」だろう。

執念の有りや無しやもそうかもしれないが,執念がなくても可能性をみることは可能なのではないか。

私は困難の方に目が行くためなかなかそういう発想にはなれないが,意識的に訓練してみる価値はあるだろう。

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この自意識過剰については歳をとるだびに減少していっている感じだ。

私のことを気にしている人はゼロと想定しても構わないだろう。

究極は,私が死んでもまったく問題ないということだ。

さらに言えば,仮に気にしたとしても,時間にして0.01秒くらいなのではないか。

例え気にした人でも「さてお昼は何を食べようかな」と0.01秒後には気になることが変遷しているだろう。

何だかこうかくとニヒリスティックであるが,この辺りからスタートすると,逆説的だがツイートにもあるように人生楽しめるようになるのではないか。

私もまだまだ自意識が残っており,言うほど簡単ではないのだが,自意識を完全になくしてしまうと,失礼等をやってしまう可能性もある。

やはり何事も程度問題なのだろう。

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さきほどクジ運の話をしたが,そのクジが「良い」のか「悪い」のかはやはり引いてみないと判らない感じだ。

よく言われる「やってみないと判らない」ということだ。

どれだけ予測しても,完全な予測は不可能なので,とりあえずやってみる(引いてみる)ことが必要になってくる。

ただなにせクジ運なので,当然「悪い」結果が出てしまうときもある。

そこではクジを引いた結果を引き受けて,その路線を自分なりに「良く」していくのか,はたまたクジの引き直しをするのか,に分かれる。

実はこの判断がとても難しいところだ。

個人的には耐えられないレベルならクジの引き直しをした方が良いように思っている。

しかして耐えられないレベルとは何かという話にもなり,これまた難しい。

食欲か睡眠の乱れか・・・。

う〜ん,何でしょうね。

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この歳になると「勝ち組」「負け組」がだいぶ分岐していっている。

まあ,大半が「どちらでもない組」なのだが,両極は確かに存在している感じだ。

でどちらも見るにつけ,何がどうかといえばやはりクジ運が大きいかなと。

「負け組」も努力しなかったわけではないのだが,仕事や結婚など大きなクジ運が試される場面で,「結果的に」ハズレを引いてしまい,その後,挽回できなかった感じだろうか。

もちろん,本人はハズレを引く気などはなかったのだが,皮肉としか言いようがない。

努力しない「負け組」は本人のせいではないかという話もあるのだが,以前も書いたが,努力しない個体に生まれてしまった(その個体を引いてしまった)クジ運が「悪かった」わけだ。

まあ,運のせいにしているじゃないかという話でもあるのだが,何だかそう感じるのだ。

何とまあ因果な世界である。

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SNS全盛のこの時代,「見て!見て!」がSNSがない時代よりも不特定多数へ拡張しているような気がする。

まあ,ソシオメーター理論では自尊心は他者からの承認の度合いを測るバロメーターということになっているので,それはそれで仕方ないともいえる。

がしかし,そのことによって,「大切な人」への対応(!?)の時間が減ったり,蔑ろにしたりするのは,実は本末転倒なのではないか。

「見て!」の先の不特定多数がいったい何をしてくれるというのだろうか。

ただの暇つぶしで閲覧しているだけ(「いいね」しているだけ)というのが実際のところだろう。

拡張ではなく縮小がポイントなのではあるまいか。

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