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カテゴリ:エッセイ

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東畑先生の話では軽躁状態というのが一番おもしろかったなぁ。

確かに仕事をする上では軽躁状態にならざるをえないところもあるだろう。

過去の自分を振り返ると,だいたいが目標が射程圏内に入ったときや目標を達成したときなどが軽躁状態になりがちだったように思う。

「うははは,俺は無敵だ!」とか「いえ〜い!(幸せ〜!)」みたいな感覚に包まれる(状態が継続する)アレだ。

ただ振り返ると,そういうときは,本人は「好調」なのだが,近い人は若干引いていたり(ほっぽらかされていたり),周囲(のまともな人)にはかなり痛い人に映っている可能性が高い。

また本人快調のため何を言っても聞き入れてはもらえないだろう。

まあ,それでも本人が幸せなら良いではないかという話ではあるのだが,真に「鍛錬人」であれば,それもまた未熟なのではないかと直観するはずである。

ではどうするのか。

それもまた探索な日々である。


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最近,ネット上で文学部(文系の学部!?)が役に立つのは人生の岐路でだ云々カンヌンというのを目にした。

が,しかし,そういう意味での「役に立つ」は,本来的な意味では「文化的」ではない。

というのも,動物は「役に立つ」ことしかしないが,人間は「役に立たない」ことをすることができるからだ。

つまり,文学もある意味では,一定の人々に「役に立って」いる分,少し「甘い」ところがあるように思う。

極限は,将来的にも何の役に立つのかわからない純粋数学や,訳の分からない新種の動植物を探して楽しんでいる学問とかなのではないか。

「役に立とうと」学問の外の世界に阿っている学問系列を見ていると何とも情けない限りである。

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いつも思うのだが,問題は「誰に嫌われるのか」なのではないだろうか。

また思うに,「真っ当に」さえしていれば,それこそ「真っ当な」人はそういう人を嫌うことはないので,それで十分なのではないかと思うのだが。

見ていると,チャレンジングで失敗が多かった人は,「当たった」場合は「ビッグ」になっていることが多いのだが,そういう人は,鍛錬がなっているのか,あまり人を嫌うことはなく,また,寛容だったりする。

「嫌われる」場合には,そういう人から「嫌われた」ときは要注意なのではないだろうか。

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「ゴミ」や「クズ」に限って何もしていないものだ。

でもって,それは私にもあてはまるといういつもの「ブーメラン」となるわけで。

ただ文句を言うときは,なるべく「さて,自分はそう言う資格があるのかどうか」を問わねばならない。

色々な自覚が深まれば深まるほど,文句は言えなくなるもので。

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先日,ブログ,ツイッター,フェイスブックとあまり更新しなくなった人が,何とインスタグラムは頻繁に更新していることが判明した。

私はインスタグラムは登録だけしていて,1回も更新したことはないのだが,久しぶりに見てみたら,「知り合い?」みたいなところに,そういう人が表示されていたので,見てみたら判明したというわけだ。

今の時代,色々なSNSがあるわけで,どこをメインの生息地にするのかは,好みの問題となってくるのだろう。

しかして,私の生息地はどこかと考えてみるに,やはりこのブログなのではないかと。

おそらくブログは「見たい人が見る」というのが確立されていて,他のはタイムライン等があり,見たくなくても「流れてくる」ところが,何か申し訳ないというか,選択の余地がないというか,ということだ。

あと,それぞれのSNSで求められる内容(!?)というものがありそうで,私の「芸風」はブログが一番適切みたいなのだ。

まあ,とにかく久しぶりにその人を「発見」したので,想うところを書いてみたしだい。

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には,なんでも,

神 → 援助者 → 被援助者

という図式があると仮定するのだとか。

つまり,援助者が援助したわけではなく,神が援助者を通して被援助者を援助しただけみたいな発想らしい。

要するに,援助者は透明でありただの媒介物なのだ。

被援助者は神とだけつながっているという視点でもあるのかも。

とはいえ,こういうスピリチュアル系は腑に落ちる人と腑に落ちない人がいるので,そう発想できるかどうかは,スピリチュアル体質に依るのだろうけど。

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皮肉な話で,何やら本とかを書いていないと,存在していないかのようになってしまう感じもある。

臨床界隈で言うと,むちゃくちゃ実力があるのに,本を書いたりしていないために無名にとどまりお声もかからないという現象だ。

が,一方で,臨床(=現場)では「痛い人」なのに,たまたま何かの機会が転がり込んできて,あるいは,舌先三寸能力で,アウトプット(=論文や本)に成功し,さも実力があるかのような状態が完成してしまう輩も存在する。

個人的には前者にもっと光があたって欲しいところだが,悲しいかな「結果が全て」で表面しか見られない現状もあり,前者は存在していないかのようだ(もちろん,私が前者であると言いたいわけではない)。

もどかしいところだが,目立ちたがり屋がはびこってしまうのも,また現実ではあるわけで,難しいところである。

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巷では「やりたいこと」を見つけたいという欲求を満たすコンテンツが色々ある。

が,しかし,どうも「やりたいこと」をやってハイテンションになりたいような風潮もある。

まあ,そういうのが向いている人もいるだろう。

が,しかし,個人的には,それよりも「やりたいこと」をやって穏やかになる方向性の方が好みだ。

そちらの方向性を打ち出したコンテンツがあまりないのはちょっと残念だ。

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可能ではあるだろう。

ただし,そういう場合は,色んなことを「見落とす」必要が出て来る。

視野が狭い場合は可能だということだ。

これは,いわゆる「幸福」にもいえることで,色々な視点を持てば持つほど,それが自分自身にも適用されることになり,自信も幸福も不可能になるという寸法だ。

自分ができているところに意識が向かいやすい性質,言い換えれば,都合の悪いところは意識に上らない性質(ある意味でポジティブバイアスでもあるのだろうけど)を持って生まれて来るかどうかでも左右されている可能性もあり,何とまあ因果な話である。

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平本先生のコーチングを見るにつけ,最終ゴールというのをイメージしてみる機会が何回かあった。

どうも私の最終ゴールは熊本の実家でまったりと暮らし日中にぽっくり逝くというイメージだ。

そこでは周囲に家族はおらず(まあ,結婚もできないだろうから当然そうなる),いわゆる孤独死な感じである。

が,しかし,そこに不幸なイメージはなく,逆に,「ああ,静かに暮らせて死ねるんだな」みたいに幸せなイメージがある。

もちろん,前エントリでとりあげたように「不幸」を「否認」している可能性もあり,事実は判らないところなのだが。

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人なかなか「うまくいっていない」というのを認めることはできないようだ。

仕事が「うまくいっていない」,家族関係が「うまくいっていない」,はては「人生がうまくいっていない」」などなど。

これは認めてしまうと,「敗北」を意味するのか,はたまた「恥ずかしい」のかは謎ではあるが,なかなか認めることは難しいようだ。

私自身は微妙なところだろう,世間的には完全に「負け組」「下流」なのだが,自分的にはそこそこ楽しい感じだ。

ただ,これは,「うまくいっていない」のを認められず,脳が「頑張って」解釈を無理やり変更している可能性もある。

自分の「否認」にはなかなか気づかないもので,難しいところだ。

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金沢で、「なぜチベット仏教なんですか」という質問があった。運動家が身体を鍛えて美しい体を作るように、チベット僧は精神を鍛えて美しい心を作る運動家が美しいように、チベット僧は美しい。人間は鍛えるとあんな風になれるのだと感心してしまう。だからチベット仏教だ。日本仏教にも、むかしはああいうお坊さまがおられたんだろうと思う。しかしいまではそう簡単にはお目にかかれない。チベット仏教でも、すべてのお坊さまがすばらしいわけではもちろんないが、すばらしいお坊さまに出会うのは、そう難しいことではない。

*色付けは引用者

別れ』(野田俊作の補正項)より

私も精神を鍛えるのが好きなのでこの辺はなんとなく解る。

がしかし,自己顕示欲を発動し,ブログを書いたり,論文や本まで書いてしまい,この世に「痕跡」を残してしまった(遠足先でゴミを持って帰らない人のようだ)。

まあ,その「痕跡」も微々たるもので,「地球滅亡」とともに消滅するわけだから,ゼロといえばゼロなのだが,我欲を発揮したことが,既に「俗物」ちっくでどうもダメだ。

というわけで,どうやら完成には程遠い状態ということになり,イマイチではあるが,残りの人生は,少し反省して,「鍛える」方向を再検討しなければならない。

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そうねぇ。

私は「何で(心理学で)博士課程に行かなかったのか」とも言われることがあるが,まあ,これ以上やっても(仮に博士号が取れたとしても),弾切れ(研究が継続されないこと)は確実だな,と考えたことが大きい(もちろん,そもそも博士課程に行けなかったのもあるのだが)。

「変わる」とできないことが断然増えてしまうが,「変わる」以前よりマンネリ化しておらず,楽しいのは間違いない。

もちろん今の現状のように「負け組」「下流」になってしまうリスクはあるのだが,それはまあ結果(=運命)で仕方のないことだ。

私が「負け組」「下流」になることより苦痛なのは退屈(同じことが続く毎日で,死まで予想がつく人生)なので。

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これは別に「プロフィール写真」だけではないのではなかろうか。

おそらく「考え方」にもあてはまると思われる。

SNSの機能にこの「いいね」系による「承認欲求」の充足がよく挙げられているが,ある意味では,その副作用にもなっている可能性もある。

とはいえ,さしたる努力もせず「いいね」と認めてもらえるという大きな利点がある以上,軽い中毒性もあったりするのかもしれない。

これを良いことだととるか,悪いことだととるかは,各人の価値観になってくるだろう。

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というのが私には2回あった。

1つは,理科の教員を目指して熊本大学を受けていたものの4浪しても受からず方向転換したとき。

もう1つは,心理学で博士号を取ろうと,博士課程に行こうとしたものの,なぜか行けなかったとき。

の2つだ。

私はこの2つから,正確には前者から「いかんともしがたいことがある」ということを学んだ。

さらに正確に書くと,前者でその感覚を掴んていたので,後者の場合に「これはむりそうだ」と判断がついたのだ。

面白いことに,うまくいかないときは,なにをどうやってもうまくいかないが,うまくいくときは,なぜかわからないが,うまくいくものだ。

また不思議なもので,次の方向さえみえれば,「いかんともしがたかったこと」はどうでも良くなる

私にとって2つは「いかんともしがたかったこと」で未練はないが,前者は老後に受験だけはしようと考えていて,後者は,別の分野で達成しようとは思っている。

未練がないといってそれはどうかということだが,まあ,未練がないことによって出来た暇を,ゲーム感覚で埋め合わせるという感じだろうか。

まだまだやることがあって退屈しないで済みそうで(・∀・)イイ!!感じである。

追記
なお,前者を達成するために,50歳までは後者にチャレンジし達成の可否にかかわらず熊本にUターンして大人しく地元に「貢献」して死んでいく予定である。

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というものを岩井先生がブログで取り上げていた。

優越コンプレックスとは,要するに「自慢」ということだ(たぶん)。

まあ,現実場面で優越コンプレックスを表明する人は極稀にしかいない感じだろうか。

ただ,昨今は,SNSで「自慢」をする人が大量に出回っている感じだ(もちろん私もそうだ)。

まあ,面と向かって言っているわけではなく,見たくないなら見なければ良い,という話ではあるが,もう少し,実際場面だったら,言うだろうか,という視点は持っていても良いのではないだろうか。

なお,「自慢」系に関していうと,あくまでも相対的であるという面もあるかなと。

「自慢」ととるかどうかは,相手の受け取り方もあり,本人が「自慢」しているつもりはなくても,相手が「自慢」と受け取る場合や,本人が「自慢」しているつもりでも,相手が「自慢」ととらない場合もあるということだ。

SNSの難しいところは,前者の場合なのかもしれない。

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「表現者」の宿命で,「批判」されるのは,これはやむをえない。

どの表現にしろ,万人に許容されるものはないからだ。

以前に書いたと思うが,あのカレーライスやハンバーグでさえも嫌う人がいるし,三大聖人である,ソクラテス,キリスト,ブッダでさえも,当時,その三人を嫌っている人がいたわけで。

批判されるのを嫌がっていると,何も表現はできないことになる。

ただ,その「批判」している人も,実はそんなにシリアスに言っているわけでもなく,言った次の瞬間忘れていることが多々あるようだ(そういう人の大半はそうだとみている)。

ただ,配慮ができる人であれば,もう少し傷つかないような言い方にするとは思うのだが。

なお,私が受けた「批判」の中で最も直接的ダメージが大きかったのは授業評価アンケートであったことを付け加えてこのエントリを終えたいと思う(皆さんもああいうので「批判」に「慣れる」とよろしいかと)。

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がある。

我々心理職で言えば,心が大事,挙句の果てには,心理職がやっていることが一番大事となる。

まあ,そう思うこともやむなしではあるが,では,その心理職から見て他の職のランクが下がるように,他職種からみれば,心理職のランクも下がるということだ。

例によって「one of them」なのである。

これは個々人にも言えることなのだが,この辺の事情は,なかなかどうして口で言うほど簡単ではないようである。

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はできる人とできない人がいるようだ。

例えばであるが,私は結婚をしていない,そんな私が「結婚は最終的には飽きるはずである」などと発言することは,可能ではあるが,しかし,その発言の権利はない,という感じだ。

要するに「持たざる者のの僻み」となるわけだ。

ところが,世の中には,自分を棚に上げることができる人がいて,僻みと思われようが,ブーメラン状態だとうが,とにかく発言できるみたいなのだ。

私なぞは絶えず「自分にそれを言う資格があるのだろうか」と考えるのだが,もしかするとそういう人は割合的には過半数割れの可能性もある。

とにかく,私の発言は,自分を棚に上げにくい私ならではの内容になっているのだ(もちろん,その条件を外せば,もう少し「幅が広がる」のではあるが)。

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これはそうかもなぁ。

オラってる輩というのは,たぶん,視野狭窄なのだと思われる。

これは幸せ幸せと連呼する輩もまたそうなのではないかと。

まあ,視野狭窄にしろ,自信・幸せと,ある意味で「才能」であるとは言えるが,あまりなりたい対象ではないな。

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自分から見た自分の重要性は大きいのはまあ当然ではあるだろう。

近しい人から見た自分の重要性もまあ,ほどほどの大きさはあるだろう。

ただそれ以外の人たちからみた自分の重要性はどうだろうか。

たぶんゼロに近いものとなるだろう(死んでも何の問題もないレベルだろう)。

このゼロを意識できるかどうかが,客観性を備えられるかどうかの分かれ目のような気がしている。

ここが意識できないと,色んな不満が出て来るのではと。


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というのはときどき考える。

ゲームで言えば,イージーモードだと,難易度は低くなりクリアは容易になる。

逆に,ハードモードだと,難易度は高くなりクリアは難しくなる。

これから敷衍すると,もしかしたら「夢が叶う」人生というのは,本人がいくら「昔は私も不幸だった」といっても,「クリア」できているわけだから,ある意味でイージーモードだった可能性はゼロではない。

まあ,この辺りの「答え」は,「あの世」(存在すればだが)で明らかになるのだろうけど。

追伸
逆に言えば,「負け組」「底辺」を言われている人たちは,(何世代か前に!?)イージーモードは既にクリアしていてあえてハードモードにチャレンジした猛者たちなのかもしれず,なかなか侮りがたいことになる。

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というのはときどき考える。

何やら小さなことを達成したり,小さなことが発生したりして幸せになる人がいる一方で,大きなことを達成したり,大きなことが発生したりしても幸せを感じない人がいる。

どちらが幸せかといえば,たぶん前者だろう。

後者は「向上心」もあり「世間的」にも派手さはあるだろうが,本人は「まだ足りない」ということで永遠に満足はできないことになる。

どうも一流どころに後者が多いようで,何ともまあ因果なものかと考えてしまう。

「前世」を想定した場合,どちらの「業」が深かったんでしょうね。

いやはやである。

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これは表現者,発信者の「定め」かと。

よく言われるように大人気のカレーやハンバーグでも「マイナス評価」を受ける場合があるわけで。

「マイナス評価」は,大学院,仕事,論文投稿,大学での授業などで散々受けてきたが,匿名性の高い大学の授業の評価がもっともダメージを受ける表現が入ってきていたように思う(「面白くない」と一言だけ書いてあったり「つまらない」とこれまた一言だけ書いてあったり)。

あれも難しいところで,平均点を大きく上回る評価項目があったとしても詳細を見ると必ず最低点をつけている者が何名かいる。

では,その最低点に向けて「改善」をすると,今度は良い点を付けた人にとっては「改悪」になるかもしれず。

また「無駄話が多い」というコメントがある一方で「雑談が面白い」というコメントもあったり。

どうやら全ての人を満足させることはできないというありふれた結論で終わる事案っぽいのだ。

なお,確かに何年もやっていると慣れが生じて多少気にしなくはなってくるのだが,それも完全ではないのが痛いところではある。

まあ,良い評価よりも悪い評価の方に注意を向けた方が生存上有利だったので,人間にデフォルトで備わってきた性質ということで諦めてはいるのだが(まあ,改良の機会もなる場合もあるしね)。

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のではないかと最近思っている。

どうも不平不満の多い者というのは,家以外で自分の価値を100として扱って欲しいという欲があるようだ。

しかし,100(!?)として扱ってもらえるのは,まあ,家の中くらいのものではないか。

家の外では,交換可能な存在でしかない,つまり自己価値は限りなく0に近いということだ。

ここを押さえておかないとストレスフルになるのではないかと思っているがどうだろう。

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私の周りにも小説家になりたいものや放送に携わりたいものなど色々なものが存在したが,いずれも語るだけで,行動には移せず,自称・しがないサラリーマンとなっている。

では,自称・しがないサラリーマンで不幸かというと,そうでもなさそうで,なかなかに幸せそうである。

おそらくであるが,どの仕事でもある程度こなせるシステムが完成しており,その中に入ると,ある程度仕事ができるようになり,仕事ができるとポジティブなフィードバックがあり,例の貢献感や所属感が生まれるのだろう。

ただ個人的に興味があるのは,出世レースの展開だ。

ある程度仕事ができるシステムが整っているとはいえ,その中でどうしても,できるできないの序列はできると思われる。

そうなると,同期に先を越されたり,後輩に追い抜かれたりすることも出てくるだろう。

そういうときどう過ごすのかと思うのだが,これも予想であるが,色々見ていると,たぶん,どこかで諦めが入り,出世云々もどうでも良くなるのではないかとみている。

要するにどう転んでも,年をとるに連れてほどほどの幸せになってくるのではないか(おそらく老化によるパワーダウン(強欲の低下)が大きいとみている)。

何だかそう思うのだが,実際のところはどうなんだろう。

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明日がどうやら国立大学の二次試験(って今はいうのかな?)みたいだ。

そこでふと思い出したのが,私の人生の(主観的には唯一の)やり残しだ。

それは熊本大学に受かることができなかったことだ。

本来は,そこで受かっていれば地元で教員(中学校理科)をやって一生を終えていたはずなのだが,その後,当時まったく予想していなかった人生になってしまっている。

もちろん,後悔しているわけではないのだが(世の中どうにもならないことがあるという感覚を学べた),あの目標に向かう感覚とか,掲示板に番号があったりしたときの嬉しさ(これは予想だけど)を,もう一度味わってみたいという想いはある。

老後に熊本大学に再挑戦しようと企んでいるのは内緒(って書いているけど)だ。

ただそのときもセンター試験が継続していれば良いのだが・・・。

2020年に変わるとかいう話もあり・・・。

それだと何だかリベンジにならないんだよなぁ・・・。

追伸
東大の院に受かったから別に良いではないかということも言われたのだが,どう考えても熊本大学(学部)の方が遥かに難しい。これは院を受験したことがある人なら信じてもらえると思うのだが。科目の数と質が全然違うのだ。

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これもほんとそうだなぁ。

行動することの良いところは,結果のフィードバックがあることだろう。

「成功」も「失敗」も結果であることにはかわりがない。

考えることは,そこにフィードバックがないのが行動と違うところなのだ。 

ただし,行動するには勇気が要るので,ある意味で,「考える」という劣等コンプレックスを創り出している場合もあると思われる。

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これは・・・。

深い。

可能性100%,困難0%

可能性0%,困難100%

という話はそうそうないので,可能性と困難の間にグラデーションがあるのが「真理」だろう。

執念の有りや無しやもそうかもしれないが,執念がなくても可能性をみることは可能なのではないか。

私は困難の方に目が行くためなかなかそういう発想にはなれないが,意識的に訓練してみる価値はあるだろう。

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この自意識過剰については歳をとるだびに減少していっている感じだ。

私のことを気にしている人はゼロと想定しても構わないだろう。

究極は,私が死んでもまったく問題ないということだ。

さらに言えば,仮に気にしたとしても,時間にして0.01秒くらいなのではないか。

例え気にした人でも「さてお昼は何を食べようかな」と0.01秒後には気になることが変遷しているだろう。

何だかこうかくとニヒリスティックであるが,この辺りからスタートすると,逆説的だがツイートにもあるように人生楽しめるようになるのではないか。

私もまだまだ自意識が残っており,言うほど簡単ではないのだが,自意識を完全になくしてしまうと,失礼等をやってしまう可能性もある。

やはり何事も程度問題なのだろう。

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