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カテゴリ:エッセイ

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これはまあ,難しいところだ。

私の年代は仕事も慣れ「無力で不安で仕方がない経験」はまったくもってないほど余裕な状態になっている者が多い。

幸せな状態であると言え,それはそれで何ら問題はないと言えよう。

ただ私の場合は,そういう場合は退屈になる。

さらに言えば,「このまま同じ生活が続くのか,もう俺は死んでいるな」みたいな感じになってしまうのだ。

私があえて,大学院,しかも,学部でも大学院でも学んだことがない哲学系の分野に行ったのは,この退屈を避けるというのが大きな目的なのだ(斜めに構えているわけではない)。

もちろん,その代わりに,やったことがない分野のため「無力で不安で仕方ない経験」を大量に経験することになる(笑)。

がしかし,それがなかった場合の退屈さに比べると,そういった経験をする方が私にとっては刺激があり,「死んでいるな」感覚を感じないで済む。

またこの分野で「余裕」とかなり始めたら,新たな分野に入っていかねばならない。

しかし,「勝っている」分野で,「偉く」なり,みんなから褒められ,批判もなく,批判されても「テメーには分かるまい」と何のダメージもなく,全般に渡って,余裕,余裕となっていている状態というのは,面白いのだろうか

私にはそれは退屈な状態なのだ。

えっ?!なんですって?!

例によって,底辺なお前の妬みだろうですって?!

そうかもしれない。

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する今日このごろである。

私は何本か論文を書いたり,書籍の何章かを担当させていただいたことがある。

となれば,私の死後もそういったものが残ることになる。

が,しかし,である,太陽の寿命が尽きると同時に地球も巻き込まれ終わることになっているようである。

となると,書いたものもまた,分子となって雲散霧消してしまう。

まさに意味ゼロの世界である。

そこで思ったのは,「確かに,究極的には何も残らず,意味ゼロだろう。しかし,書いたこと等も含めて,生活の中の感じや感情を感じたことは事実ではないのか」というところだ。

まだその先を考えるには至っていないが,最近はそんな「感じ」がするしだいである。

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博士課程入試が合格だったということは必然的に修士論文も合格だったことになる(留年なし)。

私は桜美林大学大学院でも筑波大学大学院でも留年している。

では,努力の量はどうだったかというと,どう考えても桜美林のときや筑波のときの方が,文献を読んだり,考えたりの量は,東大のときよりも圧倒的に多いと思う。

いったい何がどう違ったのか。

おそらくは単なる「運」だろうということだ。

私は中央大学で卒論を書いたわけであるが,そのときは,何ら苦労せずにサクサクと書けたため,何で大学院で指導教員が居るのかが理解できなかったほどだ(卒論は「良い」出来だったみたいで紀要に掲載された)。

そのときの感覚があったので,はっきり言って大学院であそこまで苦労するとは夢にも思っていなかった。

さてもう一度努力量を振り返ってみると,

筑波大学大学院>桜美林大学大学院>東京大学大学院>中央大学

となっている。

では結果はどうかというと,皮肉なことに逆になっているのではないか。

となると,やはり,「」「偶然」「たまたま」としか言いようがない。

何とまあ,悲惨な話ではないか。

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それは,発信したい気持ちはない,からである。

私は読書は好きだが,何かに疑問を持ってそれを自ら解決する,という気持ちはない。

じゃあ,何で論文とかを書いたかというと,卒業や終了のために「仕方なく」書いたのである(笑)。

現在も博士号の「ために」書いているので,そういうのがないと,ただ読書をして満足なのだ。

つまり,受信は好きでも必要性がなければ発信に関してはそもそも発想さえ沸いてこないというのが正直なところだ。

なので,私は「研究者」ではなく,単に「読者」なのである。

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大学を出て就職して結婚して子どもを生んで云々といういわゆる「普通」といわれるコースや基準が存在する。

「普通」なんてない,そんなの気にするな,という言説にはよく出会う。

しかし,それは可能なのだろうか。

芸能人とかは圧倒的パワーで「大学を出て」の段階から既に軌道を外れている。

しかし晩年は大学に戻ったりする場合もある。

思うに「普通」基準はやはり存在し,そこから外れると圧倒的なパワーや成功を収めていてさえも「普通」基準を満たせないと「劣等感」になるのではないかと。

まあ,もちろん私は圧倒的パワーで成功していないので,あくまでも推測の域は出ないのであるが。

しかし,この論でいくと,手堅く手堅く「普通」を行った者が最も良いということになるが,それはそれでまた「普通」外の人を妬んだりしているのかも知れず,なかなか業が深い世の中である。

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心理学界隈を騒然とさせている件だが,私もこれについては思うことがある。

以前も書いたが期待違反法みたいなもので,普通に当然進行すると思っていた事態が突然進まない事態になることに遭遇してしまうことであるように思う。

私はそれを大学院時代の修士論文(の結果)と某大学の博士課程に出願したとき(そして取り下げ)に経験したことがある。

それはまさに突然と言うにふさわしい事態で,また自分の努力が及ばない事態でもあり,いかんともしがたさがつきまとう。

しかも,その突然の事態を「普通の」人は「普通に」通過できていたりする。

「明日は我が身」とも微妙に違っているようだ。

私が想うのは「人生ままならない」という単純なことであるが,それをどこまで深く痛感しているかというところだろう。

突然,当事者になったとき,どう動くか,そこが問われるのかも。

追伸
これは確かに「幸運な」当事者ーこの場合は当事者とは言わないのかもしれないが―になる場合にも同様なのではないか。

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これはなるほどなと。

自分自身(または世界)が「意味ゼロ」だと思えば,絶望を通るかどうかは人によるかもしれないが,あとは「居直る」方向だ。

そして残るのは,「楽しい」とか「面白い」とかの「感覚」だけだ。

そんな気がする。

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これは年とってみてよく解る話だ。

若かりし頃は「わ〜,すご〜い」とか言われること「も」目指していたりしたが中年になってくると,「では,いったい誰にそれを言われるのか。ほんの一瞬だけの関係の人に言われて何の意味があるのか」みたいな感じになる。

今は対照的に私はフレーズの後者へと移行している感じだ。

これをして向上心がなくなったとみなすのか,丸くなったとみなすのかは,価値観に依るのかも。

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これはほんとうにそうだろうなぁ。

私も若い頃はそんな風考えていた(笑)。

ただまあ,若干「開ける」ことはあるとは思うが,主観的な幸福感は一定期間が過ぎると,その人の標準値に「返ってくる」のではないか。

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これは45の私でさえもそう思うなぁ。

話は逸れるかもしれないが,先日,ふとテレビを見る機会があったのだが,そこで病院ものをやっていた。

病院のシーンだったので高齢者の入院患者がたくさん映っていた。

それを見つつ「ああ,そこでこそ,単なる患者であり,地位も名誉も金も(私の場合はそもそもどれもないのだが)意味がなくなる地点だなぁ」と想い,最期は単なる肉片で終了か」などと考えてしまった。

私も残り時間が少ない(別に不治の病に罹っているわけではないのだが)(本当は何歳だろううが実質はそうなのだが)。

どうしたもんかなぁ。


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まあ,「成功」を「どれだけ金を稼いだか」とした場合のシミュレーションみたいであるが,まあ,妥当な線なのではないか。

この運に関する態度は「勝ち組」人生側と「負け組」人生側では捉え方が違ってくるような気がする。

私は「勝ち組」ではないので,あくまで予想なのだが「勝ち組」からすると「運ではない。実力である」となるのではないか。

逆に「負け組」からすると「運だ」ということになりそうだ。

仮に同じ能力だとしても(まあ,そんな仮定はそもそも成り立たないし,そもそも能力自体が生まれたときの運である),生きていく中で,あちら側からやってくる要因(運)は,自分ではコントロールができない(それこそほぼランダムだ)。

ある哲学者が「勝ち組」になったとして,「負け組にならなくて良かった。うふっ」となるのではなく,「そのこと(運でそうなったこと)に後ろめたさを感じるくらいでないと」と書いていたが,本来はそういうものなのではないか。

まあ,そうはならないのが通常であるとは思うのだが。

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これはほんとそうなんだよなぁ。

「やりたいこと」がないなら別に良いとは思うのだがあるのなら打って出た方が良いとは思う。

がしかし,ここの書いてある収入(生物学的な死を予感させる),世間体(社会的な死を予感させる)などが,どうしても「邪魔」してしまうのはある意味で仕方がないところだろう。

ただ問題は「では果たしてそれが生きている状態なのか」というところなのではないか。

確かに「やりたいこと」をやると行き詰まって死んでしまう可能性は高いだろう。

しかし,「やりたいこと」があるのにそれをやらないのもまた死んでいるとは言えないだろうか。

まあ,負け組になってしまった私が言っても説得力がないところがミソなのでが。

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オリンピックが終わりメダルを取った選手は嬉しそうでもありそれを見た人もまた嬉しそうであった。

がしかし,私の場合は,「勝ち組」の方はさることながら「負け組」の方も気になってしまう。

金メダルを取った人は嬉しいだろうが

1.金メダルを取れなかった人

2.金メダルを取った人の知り合いで人生がうまくいっていない人


などはどうだろうか。

「くやしいいい!!!」と嫉妬しているのではないか。

ある一つの「幸せ」が,一方で別の一つの「不幸せ」を作り出すという皮肉。

何ともはや人生である。

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これが簡単なようで難しいのではないか。

後者はまあ,よく経験することなので,その内,「ついてくる」可能性もあるだろう。

一方で,前者は理論上(!?)滅多にないので,「棚ぼた」でもあろうものなら,「調子に乗って」しまうことも多々あるだろうと予想できる。

ということは,見るべきは「順境」での立ち振舞なのではないか。

長年生きていると「下克上タイプ」(目立とう精神はあるものの不遇年数=年齢)みたいな場合は,どうも「順境」になったときに下品になってしまう場合が多いように見受ける。

まあ,それはそれで未経験のため仕方がないと言えば仕方がないのだろうが,不遇時代にちゃんと鍛錬をしておかなかったとも考えられ,見かけた場合は,なんともいえない気分である。

えっ!?お前が羨ましがっているだけだろうですって!?

まあ,そうかもしれません(笑)。

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これ実に判別が難しい。

ワークタスク<フレンドシップタスク<ラブタスクという順番で難易度が上がる(らしい)が,外面が良く内面が悪いのは,ワークタスクの方が難易度が低いからだろう。

これと似たような現象で,仕事の効率的進め方とか,自己実現的生き方を声高に言い募る輩が,フレンドシップ,ラブレベルでは,「どうしようもない」人材である可能性もあったりする(身近な人からは,また口だけのことをみたい思われていたりする)。

いずれも心理的に近いレベルになってようやく判るという始末の悪さのため,どこで「見抜く」のかはなかなか難しいところだろう。

ただ,ワークタスクレベルでは,人の心を動かすような言動が採れるので,それはそれで,そういう人たちには役に立ってるから良いではないかという見方もあるのだが(笑)。

えっ!?お前はどっちなのかですって!?

う〜ん,相手に依りますかね(笑)。

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これは・・・。

なんとも泣けてしまった・・・。

私は猫を飼ったことがあるので,ほんとうによくわかる・・・。

もしあの世があるとしたら,また猫たちに会えないかなとも思っている。

今にして想えば,「ねことひるね」はとても幸せな時間だったなと。

猫たちとの日々を思い出させてくれた作品に感謝したい。

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は、別に業績がしょぼいからというわけではなく、基本的に私はインプットというか読書みたいなものが好きなだけで、アウトプットは別にしたいとも思っていないからである。

なら時々アウトプットしているのはどうしてなんだとなるとも思うが、それは単に卒論の単位が必要だったり、学位取得に必要だったからそうしただけで、ときに「アウトプットしたい!」と強く望んだわけでもないのだ。

インプットが好きなだけの私は本来は先行研究とか読んでも「ふ〜ん」で終わるだけなのだが、何かアウトプットするさいには、無理やりその「問題点」を見つけている感じなのだ(笑)。

じゃあ、お前は何なんだとなるが、自分でもよく判らない(笑)。

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競合原理が近代の不幸の根源だとアドラー心理学は考えている。その極端な例が、共産主義と資本主義だ。共産主義は暴力を手段として競合的であり、資本主義は財力を手段として競合的だ。つまり、現代の思想はすべて競合原理にもとづいており、別の言い方をすると非アドラー心理学的だ。だから、現代社会への順応を目的にアドラー心理学を教える人は、自己矛盾を犯している。 

 そうかといって、現代社会に不適応になるように勧めるわけにもいかないので、まずアドラー心理学に対して『狂信的』になるように勧めている。うまく狂信的になりおおせた人は、《愛のタスク》や《交友のタスク》で接する人々との関係が良くなるので、《仕事のタスク》で接する人たちとの間の多少の不具合は気にしなくなる。さらに、《仕事のタスク》で接する人たちからの一部からすこしくらい嫌われても気にしなくなるので(つまり「嫌われる勇気」ができてくるので)、社会適応は全体としてはかえってよくなる。 

 もっとも、出世もしなくなるかもしれないし、金儲けもできなくなるかもしれないけれど、よい人間関係を保ちながら伸びやかに一生を暮らすだろう。私はアドラー心理学を学んで30年あまり暮らして、自分でもそういう実例でありたいと思ってきたし、人にもそういう暮らし方を勧めてきた。ある人たちはそのような考えに賛成して、《横の関係》で《協力的》に暮らして《所属》を遂げて幸福であるが、経済競争や地位競走の勝ち組にはなれないから、そう金持ちでもないし、そう出世もしていない。これでいいんじゃないか? 

*強調は引用者

「何を保守するか(5)」『野田俊作の補正項』より

さらに言えば自分自身との関係がよくなれば(《自己タスク》ですな),仕事,交友,愛での多少の不具合も気にならなくなるのではないか。

でもどうだろう,そうなると,1つは社会からこぼれ落ちるか,もう1つは地位競争には勝てないかもしれないが,お金持ちになっていたりするのではないか。

いや,どうだろう,お金がたくさん流れてきても,慎ましい暮らしで満足し,「余った」お金はどこかに「流して」しまったりして,やっぱりダメかもな。

例の「お金は感謝の印である」とどこかでお覚りが開ければ,豪華な家に住み,豪華な車に乗り,豪華な服を着るなども可能となりなれるのかもしれないが(笑)。

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これも難しいところなのではないか。

おそらくそういう状態は能力運と状況運の組み合わせが良ければ極稀に実現はするだろう。

しかし以前も書いたとは思うのだが,いかんせん,そういう人は妬まれる可能性が高い。

多くの人間と本人自身を幸せにするだろうが,一部(おそらくその人の知り合いだとは思うが)を不愉快にすることで不幸にしてしまうだろう。

これがいわゆる幸福の最終条件として満たすことが難しいところなのだ。

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確かにそうかもなぁ。

そもそも「その時点」で「成功」しているとはいえ,では「その後」も「成功」しているとは限らないところがあるだろう。

また,人間パーフェクトはなく,どこかに「欠けているところ」があるもので,となると,「成功」していると「思っている」人間は,その「欠けているところ」を見ていないだけということになる(あるいは「成功している」点だけに焦点をあてて見ていることになる)。

つまりは「認知の歪み」があるということだ。

本人が幸せならそれで良いではないかという話ではあるが,「神の視点」(!?)からはどうなるのかは,まさに「神のみぞ知る」というところだろう。

まあ,問題は「成功」していない私がこんなことを書くと単なる妬みになってしまうことだろう(笑)。


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自分を変えるためには環境を変えることが一番
自分が一番下っ端になる環境に飛び込むこと
その繰り返しで変わり続けていれば人生飽きることはありませんよ

challengeしてchangeしてchanceを掴むの繰り返し
『三つのC』の循環を止めないように

上記ツイートより

自分が一番下っ端になる環境に飛び込むこと,例えば私の場合は,今の大学院に行く段階で,専攻を変え,同時に業績もゼロになり,基礎知識もない状態となってしまったため,「一番下っ端」になってしまった。

そうなると恥をかくことも多くなり,また劣等感や不安を感じる場面も多くなるが,その代り,飽きた状態で過ごすことはなくなる。

ショーペンハウアーが,人生の退屈と苦痛の間を揺れ動く,と述べているが,私は退屈ステージから苦痛ステージへ移行したともいえる。

それもまた何年かすると退屈ステージとなるのだろう。

さて,最期はどっちのステージで終わるのだろうか。

サイクルの「運」しだいかな。

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がある。

それは,行動生態学とかでは,男性=年収(餌獲得力),女性=年齢(外見)が,その価値であると,文化横断的に検証されているのだが,その指標が何と露骨には示されていないというところだ。

なぜか男性の年収と女性の年齢の公表はタブー視されていて(もちろん中には言う人もいるのだが),その辺は肩書とかから推測するしかない感じになっている。

ということは,露骨に言う戦略と隠す戦略では,隠す戦略の方が(生存・繁殖に)有利だったことになる。

しかし,個人的には,露骨に言う方が(わかりやすくて)有利なような気もするのだが,いったい何でこういう状況になっているのかが謎なのだ。

既に何か仮説が提出されているのかどうか気になるところだ。

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以前も書いたが,その能力でさえもある意味で始めの「運」である。

上の文章で言えば,学力・判断力・創造力・体力のそれぞれが生まれるときの「運」で左右されてしまう。

また,その能力を基にして「努力」(これさえもできるできないは能力なのだが)することになるが,そこでもまた「運」が左右し,「結果」が出る出ないが決まってくる。

もちろん「勝ち組」からすれば「努力すれば夢は叶う」のであり「誰でも幸せになれる」ことになる。

がしかし「負け組」からすれば「努力しても夢は叶わない」のであり「誰でも幸せになれるとは限らない」という感じになるだろう。

この差を生むのは何か。

能力運とめぐり合わせ運の組み合わせなのではなかろうか。

そしてまた皮肉なことに,上にあるように「結果」からでしか判断されないのもまた事実。

マキャベリは人は「外見」と「結果」からしか判断しないとしているがそういうことだ(「内面」と「過程」は無視されるということだ)。

なんとも皮肉なお話だ。

ただときどき思うのだが,あの世(あるとすればだが)は,この辺,どういう判断基準になっているのかということだ。

ゴータマとかイエスは,どうも世にいう「勝ち組」っぽくはない

仮にあれが基準だとすると,「勝ち組」は何かに気づかなかったということで,あちらではランクが「下」になる可能性がゼロではないということになる。

いや,ランクそのものが存在せず,みな平等となる可能性もあるのかなぁ。

いやはや,その辺,それこそ「神のみぞ知る」ってところなのか。

しかし,色々な人生模様を見てくると,それなりに能力と結果云々は考えてしまわざるをえない

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これがまた「生来の傾向」が関係していそうなところではないか。

たいしたことしてないのに幸せなパターンと,ものすごいことをやっているにも不幸なパターンの違いは,単にこういうところにあるのかもしれない。

ただこの歳まで生きてくると,日常生活では別に幸せでもなく不幸でもなく,単に「平常」みたいな感じが通常であることも判る。

逆に言えば,幸不幸を感じてしまう条件が揃った時に幸不幸を考えてしまうのではないか。

その条件は・・・。

暇。

なのではないかと。

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キレイ事の世界に居るには成立する条件があると思っている。

主な要因はおそらくだ。

自分が金持ちか配偶者が金持ちかした場合,付き合う人を選べる立場になるため,キレイ事の世界に浸りやすくなる。

まあ,確かにそういう領域も存在はするのだろうが,実際は,キレイ事人とばかり付き合えるコミュニティというのはレアだ。

大半はキレイ事が通用しないサイコパス傾向人とか自分と相性が悪い人とかも相手にしなければならず,なかなかキレイ事が成立しないのが実態だろう。

頭が「お花畑」な人はそれまでの人生がラッキーだったということだろう。

もちろん「これからもそう」とは限らないとは思うのだが。

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これは私が40歳過ぎたとき,そして色々することがなくなってしまったときに,リアルに感じたことだ。

おそらくこれまでは「目標」や「世の中への適応」等で煙に巻いていたものが,それらがなくなったと同時に,露呈してしまったのだろう。

冷静に考えると,元からあったものだ。

「幕引き」へ向けていろいろと考えなければならない。

P.S.
逆に言えば,再び「目標」をもったり「世の中への適応」を再始動すれば,また「酔える」のかもしれないが,さて,そういう「麻酔」が効く身体なのかどうかが問題だ。

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は何と言ってもM1(筑波大学時)のときに行った会場が早稲田大学だったときのものだ。

私は別に参加する気はなかったのだが,研究室の懇親会係になったので行く必要が出てきてしまい,その関係でついでに行ってみた感じであった。

それ以前は,心理臨床学会の事例発表しか見たことがなかったので,実験や調査の発表を見るのは初めてだったのもあり参考になるかもしれず多少は楽しみにしていた。

特に聞きたいものもなかった私はテキトーにその辺にある部屋に入ってみた。

4人くらいが発表する部屋だっただろうか。

始めは確かに調査系の人の発表があり,「なるほど,こんな感じで進行するんだな」と思いながら聴いていた。

で,最後の発表者になるのだが,何とその人はWord(をプロジェクターに映し出す)で発表をし,しかも事例(というかエッセイというか)を発表しだした。

私は「???」となっていたが,他の発表者や参加者も「???」となっていた感じになり,その人の質疑はシーンとなっていて,質問ゼロであった。

「こ,こんなのでも発表できるのか」「だとしたら,度胸があれば(鈍感であれば)なんでもいいんだな」と思った,というのが,実はその大会に出た最大の意義であったように思う。

いやはや,度胸(鈍感さ!?)は大事ですな。

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この辺,さすが「仏陀」というところだろう。

ネガティブ感情は「苦しい,何とか元に戻らないか」と対処をしようとするが,どうもその反対のポジティブ感情に対しては「う〜ん,幸せ♡」と対処はしないというのが,人一般なのではないか。

ただ鍛錬人は,どこかでこのポジティブ感情の甘さを感じ取るのか,ポジティブ感情さえも元に戻そうとしているようだ。

足元が疎かになるからなのか,ポジティブ感に包まれている事態を未熟と捉えるのかはわからないが。

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があるらしいことが何だかいろいろな研究で解ってきている風である。

例えば,結婚して「幸せ」になっても5年後には,その人本来の「幸せ」ポイントに戻り,逆に離婚して「不幸」になっても,同じく5年後には,その人本来の「幸せ」ポイントに戻るらしい(あくまでデータ上のことなので,幸せ・不幸のままという人もいるのかもしれないが)。

結婚でさえそうなら,あとの「イベント」はもっと「戻る」のが早いのではないか。

そもそもがセロトニン・トランスポーターの長さが生まれながらに決っているというのが要因ではないかと疑われているが,だいたいそうなのではないか。

まあ,この辺,まさに生まれながらのくじ運になってくるところなのだろうけど,まあ,皮肉なものだ。

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足りないものは何もないという満ち足りた人なんていませんので
誰もが誰かに嫉妬心を抱いて生きているんですよ

上記リンク先より

嫉妬・・・。

なかなか難しい感情だ。

ラ・ロシュフコーは,嫉妬は「過去にそうしていた」と告白することはできるが,「現在している」嫉妬は表立っては言えないものだとしている。

ただ思うに,嫉妬も感じはするものの,実質,実際に感じるのは,3秒くらいなのではないか。

あとは例によって,いつもの日常が続くだけである。

なので,確かに存在はするものの,日常に影響はしないのではないかと踏んでいる。

まあ,めちゃくちゃ強い嫉妬だとその辺どうなのかわからないが。

しかし,あれだ,嫉妬している状態を脱しても,その状態にもいずれは慣れて,「当たり前」となり,結局,「空」と悟るだけなのは,いつものパターンではあるのだろうな。

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最近,自身が年を取ってしまったからなのか,肉とかをみると「ああ,死んでるなぁ」とときどき想ってしまうことが多くなった。

もちろん,野菜もまた「ああ,死んでるなぁ」ではあるのだが,肉ほどのリアリティはない。

SNS等で出てくる楽しそうに繰り広げられる食事シーンも写っている食べ物の画像をみて「ああ,いろんな(殺されるという)悲劇が・・・」とか想ってしまう。

まあ,常に思うわけではないので,それで食べられなくなるという風ではないのだが。

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という気もする。

老後でもないのに自信を持ったり,自己受容しているのは,たぶん,「(楽天的)認知バイアス」で自分の都合の良いところだけ「つまみ食い」している状態であると推測される。

ただ老後のオマケだと仮定すると,老後になる前段階で死んでしまうと,自信も自己受容もないまま死んでしまうことなるが,それもまた「人生」なのかもしれない。

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がどうも不思議である。

そもそも,家族や友人,はたまた職場で「承認」されていれば良いだけの話のようだが,そうもいかないようだ。

1.家族や友人,職場など身近なところではあまり「承認」されていないので,SNSにしろ,発信物にしろ,より関係が薄いところで,自分を出し(ある程度装飾し),「いいね」や「発行」で,代替満足を引き出す。

2.家族や友人,職場でも十分「承認」されているが,まだまだ「承認」されたいという「強欲」さがある。

という2パターンがありそうに思うのだがどうだろう。

承認欲求は,(理論上は不可能ではあるにしても)どこかである程度は押さえないと(諦めないと),承認のドーナッツ化現象(身近な人に承認されず,関係が薄いどうでも良い人に「承認」される現象)に巻き込まれてしまうので注意が必要なように思う。

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なるほど,大岩くんの講演かぁ・・・。

そういえば,私は講演とかやったことないなぁ。

といっても,私が講演をするとかなり「後ろ向きなは発言」ととられる可能性があり,演題で却下か,リピートなしで終わりだろうな。

「夢は叶うときもある」

「夢が叶ったとしてもその分野で一番になれる人は一人で残りは負け組感満載」

「その一番の人も自分の理想には届かず状態でどの道不満」

「才能は生まれた時点でランダムに配置されている,環境もランダムなので,2つのくじ運が左右する」

「好きなことで食っています系は,ある意味で,100億円の宝くじにあたった人なので,例外であり,あくまでもたまたまなので参考にならない」


「幸せを感じられるのも脳の性質に依るので,これまた生まれた時点でほぼ決定している」

「幸福感への影響は実証分野では単に安定した雇用状態(安定した収入が得られる状態)にあることだけが効いている」


「どの道,死んでしまう」

「残したものも,地球消滅で同時消滅」


などなど。

う〜ん,やっぱり夢がない講演だなぁ・・・。

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それこそ保育園に入る前くらいの年のころだろうか,近所に一軒家で独り暮らしをしている,おばあさんがいた。

当時の一軒家はまだ瓦葺屋根の家も存在しており,そこは瓦葺屋根の家で縁側もあり,私が行くと直ぐ会うことができていたりした。

庭には菜の花とかが咲き,モンシロチョウも飛んでいた。

考えてみれば,そのおばあさんは,ネットで発信することもなく,ましてや本や論文を書くこともなく,死んでいったわけだ。

少し前から,何だかその一軒家とおばあさんと菜の花とモンシロチョウのセットがときどき思い出すようになってきている。

たぶん,私も本当はああありたいのだろう。

が,いわゆる「普通である勇気」を失い,色々と発信してしまった。

これは私が未熟だったからだと今では思っている。

今ステージでは,俗欲にまみれ,もう色々「やらかして」しまったので,次のステージ(あるのか!?)は,あのおばあさんのようなステージにたどり着きたいものだ。

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しかし,まあ,何でみなさん東京に出てきたがるんでしょうね。

私には全く理解できないところです。

「お前だって出てきているじゃないか」と言われるところですが,私の場合は単に熊本大学に受からず他の県内に私立は行く気もなくで,すべり止めに知り合いが近くにいた中央大学を受けてみたという感じです(東京は怖いので。さしずめ外国に留学するような怖さでしょうか)。

若かったのでしょう。

熊本県では(と言い切ってしまうと語弊がありますが),大学と言えば,東大(京大)→九大(九州大学)→熊大(熊本大学)の3つだけが大学という感じになっており,それ以外の国立は存在せず(関東で言えば,一橋大,東工大などもほぼ誰も知らない),もしてや私立大は早慶上智も含めてほぼ無名(これはさらに誰も知らない),ア◯が行くところとなっていた風潮がありました。

で,熊大以外には県内に私立しかもア◯な私立しかなかったため,「東京に行くぞ!」という積極的な理由ではなく「ア◯な大学に行くと一生の恥だ」という消極的な理由で上京と相成ったしだいです。

今にして思えば,別にどこの大学に行っていても,教員になる予定だったので,教員免許は取れたはずで,特にこだわる必要はなかったと思うのですが,未熟だったと思います(どうやら私が一番ア◯だったんですね,素直に県内の私立に行っていれば,熊本で就職して一生を終えていたでしょうに)。

地方は職がないだろうと言われますが,別にちゃんと生活している人はいるわけで,特に問題はないような気もするのですがどうでしょう。

私も50歳までは東京にいる予定ですが,博士号を取ると同時に(取れればですが),熊本に「Uターン」して,(極)貧困生活に入り,ブログ,SNS等も停止して,地元に「貢献」して静かな余生を送ろうと考えているくらいです(そう,問題はさすがに50歳で職があるのかというところなのですが。SCならできそうですよね)。

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例えばである。

私が「テレビに出ている心理士はくだらない」と言ったとしよう。

もちろん,専門家よりの人であれば,それが解ってもらえる可能性が高いが,そうでない人には単なる「僻み」ととられる可能性が高い。

つまりは結果を出していないことについては,「僻み」ではないと思っていても,コメントは難しいということになる。

そして厄介なところは,本人が「僻み」ではないと思っていても,無意識的には「僻んで」いる可能性があるところだ。

いやはやである。

逆に言えば,結果を出していないことについては,意識的に「褒めて」おいた方が無難でもあるということになる。

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これもまたそうだ。

一病息災みたいなものだろう。

思い上がりも,周囲からみれば大したことがないことで,そうなっている場合も多いだろう。

逆に言えば,そういう醒めた視点を持っていることは大事だということだ。

ついつい自分が価値があるとかスゴいと思っていることは他人もそう思うだろうと思ってしまうもので。

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これはなるどなと。

私は現在,大学院生でもあるわけだが,そこへ動くさいには,はやり「危険」は感じた。

まずもって大学院に通うので収入は減る(と同時に貯金はできない上に逆に減っていく)。

次に専門分野を変えるので博士号は取れるかどうか分らない。

つまり,死の予感は確かに上がる。

が,確かに,同じ生活を続けていたときよりは,「全身が生きてくる」。

ただ私の場合,死の予感よりも,死までの退屈の方が苦痛なので,ついつい「危険」を感じる方へ駒を進めてしまう。

厄介なところだ。

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だ。

生まれたときに様々な「能力」が様々に「配分」される。

そして,様々な「運」(=めぐり合わせ)が様々に「配分」される。

その「配分」はまさに自分の意志ではどうすることもできない

ただこういう「配分」はあまり意識されることがなく,「努力」に帰される場合が多いように思う(「勝ち組」「幸せ組」ならなおさらそうだろう)。

が,同じ「努力」でも,「能力」と「運」によって報われるかどうかが決まり,また皮肉なことに「努力」できる「能力」もまた最初の「配分」によって決まってしまっている。

いやはや,人生クジ運観のある私の偏見の可能性が高いが,いろいろ考えてしまう。

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東畑先生の話では軽躁状態というのが一番おもしろかったなぁ。

確かに仕事をする上では軽躁状態にならざるをえないところもあるだろう。

過去の自分を振り返ると,だいたいが目標が射程圏内に入ったときや目標を達成したときなどが軽躁状態になりがちだったように思う。

「うははは,俺は無敵だ!」とか「いえ〜い!(幸せ〜!)」みたいな感覚に包まれる(状態が継続する)アレだ。

ただ振り返ると,そういうときは,本人は「好調」なのだが,近い人は若干引いていたり(ほっぽらかされていたり),周囲(のまともな人)にはかなり痛い人に映っている可能性が高い。

また本人快調のため何を言っても聞き入れてはもらえないだろう。

まあ,それでも本人が幸せなら良いではないかという話ではあるのだが,真に「鍛錬人」であれば,それもまた未熟なのではないかと直観するはずである。

ではどうするのか。

それもまた探索な日々である。


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最近,ネット上で文学部(文系の学部!?)が役に立つのは人生の岐路でだ云々カンヌンというのを目にした。

が,しかし,そういう意味での「役に立つ」は,本来的な意味では「文化的」ではない。

というのも,動物は「役に立つ」ことしかしないが,人間は「役に立たない」ことをすることができるからだ。

つまり,文学もある意味では,一定の人々に「役に立って」いる分,少し「甘い」ところがあるように思う。

極限は,将来的にも何の役に立つのかわからない純粋数学や,訳の分からない新種の動植物を探して楽しんでいる学問とかなのではないか。

「役に立とうと」学問の外の世界に阿っている学問系列を見ていると何とも情けない限りである。

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いつも思うのだが,問題は「誰に嫌われるのか」なのではないだろうか。

また思うに,「真っ当に」さえしていれば,それこそ「真っ当な」人はそういう人を嫌うことはないので,それで十分なのではないかと思うのだが。

見ていると,チャレンジングで失敗が多かった人は,「当たった」場合は「ビッグ」になっていることが多いのだが,そういう人は,鍛錬がなっているのか,あまり人を嫌うことはなく,また,寛容だったりする。

「嫌われる」場合には,そういう人から「嫌われた」ときは要注意なのではないだろうか。

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「ゴミ」や「クズ」に限って何もしていないものだ。

でもって,それは私にもあてはまるといういつもの「ブーメラン」となるわけで。

ただ文句を言うときは,なるべく「さて,自分はそう言う資格があるのかどうか」を問わねばならない。

色々な自覚が深まれば深まるほど,文句は言えなくなるもので。

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先日,ブログ,ツイッター,フェイスブックとあまり更新しなくなった人が,何とインスタグラムは頻繁に更新していることが判明した。

私はインスタグラムは登録だけしていて,1回も更新したことはないのだが,久しぶりに見てみたら,「知り合い?」みたいなところに,そういう人が表示されていたので,見てみたら判明したというわけだ。

今の時代,色々なSNSがあるわけで,どこをメインの生息地にするのかは,好みの問題となってくるのだろう。

しかして,私の生息地はどこかと考えてみるに,やはりこのブログなのではないかと。

おそらくブログは「見たい人が見る」というのが確立されていて,他のはタイムライン等があり,見たくなくても「流れてくる」ところが,何か申し訳ないというか,選択の余地がないというか,ということだ。

あと,それぞれのSNSで求められる内容(!?)というものがありそうで,私の「芸風」はブログが一番適切みたいなのだ。

まあ,とにかく久しぶりにその人を「発見」したので,想うところを書いてみたしだい。

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には,なんでも,

神 → 援助者 → 被援助者

という図式があると仮定するのだとか。

つまり,援助者が援助したわけではなく,神が援助者を通して被援助者を援助しただけみたいな発想らしい。

要するに,援助者は透明でありただの媒介物なのだ。

被援助者は神とだけつながっているという視点でもあるのかも。

とはいえ,こういうスピリチュアル系は腑に落ちる人と腑に落ちない人がいるので,そう発想できるかどうかは,スピリチュアル体質に依るのだろうけど。

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皮肉な話で,何やら本とかを書いていないと,存在していないかのようになってしまう感じもある。

臨床界隈で言うと,むちゃくちゃ実力があるのに,本を書いたりしていないために無名にとどまりお声もかからないという現象だ。

が,一方で,臨床(=現場)では「痛い人」なのに,たまたま何かの機会が転がり込んできて,あるいは,舌先三寸能力で,アウトプット(=論文や本)に成功し,さも実力があるかのような状態が完成してしまう輩も存在する。

個人的には前者にもっと光があたって欲しいところだが,悲しいかな「結果が全て」で表面しか見られない現状もあり,前者は存在していないかのようだ(もちろん,私が前者であると言いたいわけではない)。

もどかしいところだが,目立ちたがり屋がはびこってしまうのも,また現実ではあるわけで,難しいところである。

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巷では「やりたいこと」を見つけたいという欲求を満たすコンテンツが色々ある。

が,しかし,どうも「やりたいこと」をやってハイテンションになりたいような風潮もある。

まあ,そういうのが向いている人もいるだろう。

が,しかし,個人的には,それよりも「やりたいこと」をやって穏やかになる方向性の方が好みだ。

そちらの方向性を打ち出したコンテンツがあまりないのはちょっと残念だ。

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可能ではあるだろう。

ただし,そういう場合は,色んなことを「見落とす」必要が出て来る。

視野が狭い場合は可能だということだ。

これは,いわゆる「幸福」にもいえることで,色々な視点を持てば持つほど,それが自分自身にも適用されることになり,自信も幸福も不可能になるという寸法だ。

自分ができているところに意識が向かいやすい性質,言い換えれば,都合の悪いところは意識に上らない性質(ある意味でポジティブバイアスでもあるのだろうけど)を持って生まれて来るかどうかでも左右されている可能性もあり,何とまあ因果な話である。

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平本先生のコーチングを見るにつけ,最終ゴールというのをイメージしてみる機会が何回かあった。

どうも私の最終ゴールは熊本の実家でまったりと暮らし日中にぽっくり逝くというイメージだ。

そこでは周囲に家族はおらず(まあ,結婚もできないだろうから当然そうなる),いわゆる孤独死な感じである。

が,しかし,そこに不幸なイメージはなく,逆に,「ああ,静かに暮らせて死ねるんだな」みたいに幸せなイメージがある。

もちろん,前エントリでとりあげたように「不幸」を「否認」している可能性もあり,事実は判らないところなのだが。

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