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カテゴリ:エッセイ

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がある。

我々心理職で言えば,心が大事,挙句の果てには,心理職がやっていることが一番大事となる。

まあ,そう思うこともやむなしではあるが,では,その心理職から見て他の職のランクが下がるように,他職種からみれば,心理職のランクも下がるということだ。

例によって「one of them」なのである。

これは個々人にも言えることなのだが,この辺の事情は,なかなかどうして口で言うほど簡単ではないようである。

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はできる人とできない人がいるようだ。

例えばであるが,私は結婚をしていない,そんな私が「結婚は最終的には飽きるはずである」などと発言することは,可能ではあるが,しかし,その発言の権利はない,という感じだ。

要するに「持たざる者のの僻み」となるわけだ。

ところが,世の中には,自分を棚に上げることができる人がいて,僻みと思われようが,ブーメラン状態だとうが,とにかく発言できるみたいなのだ。

私なぞは絶えず「自分にそれを言う資格があるのだろうか」と考えるのだが,もしかするとそういう人は割合的には過半数割れの可能性もある。

とにかく,私の発言は,自分を棚に上げにくい私ならではの内容になっているのだ(もちろん,その条件を外せば,もう少し「幅が広がる」のではあるが)。

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これはそうかもなぁ。

オラってる輩というのは,たぶん,視野狭窄なのだと思われる。

これは幸せ幸せと連呼する輩もまたそうなのではないかと。

まあ,視野狭窄にしろ,自信・幸せと,ある意味で「才能」であるとは言えるが,あまりなりたい対象ではないな。

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自分から見た自分の重要性は大きいのはまあ当然ではあるだろう。

近しい人から見た自分の重要性もまあ,ほどほどの大きさはあるだろう。

ただそれ以外の人たちからみた自分の重要性はどうだろうか。

たぶんゼロに近いものとなるだろう(死んでも何の問題もないレベルだろう)。

このゼロを意識できるかどうかが,客観性を備えられるかどうかの分かれ目のような気がしている。

ここが意識できないと,色んな不満が出て来るのではと。


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というのはときどき考える。

ゲームで言えば,イージーモードだと,難易度は低くなりクリアは容易になる。

逆に,ハードモードだと,難易度は高くなりクリアは難しくなる。

これから敷衍すると,もしかしたら「夢が叶う」人生というのは,本人がいくら「昔は私も不幸だった」といっても,「クリア」できているわけだから,ある意味でイージーモードだった可能性はゼロではない。

まあ,この辺りの「答え」は,「あの世」(存在すればだが)で明らかになるのだろうけど。

追伸
逆に言えば,「負け組」「底辺」を言われている人たちは,(何世代か前に!?)イージーモードは既にクリアしていてあえてハードモードにチャレンジした猛者たちなのかもしれず,なかなか侮りがたいことになる。

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というのはときどき考える。

何やら小さなことを達成したり,小さなことが発生したりして幸せになる人がいる一方で,大きなことを達成したり,大きなことが発生したりしても幸せを感じない人がいる。

どちらが幸せかといえば,たぶん前者だろう。

後者は「向上心」もあり「世間的」にも派手さはあるだろうが,本人は「まだ足りない」ということで永遠に満足はできないことになる。

どうも一流どころに後者が多いようで,何ともまあ因果なものかと考えてしまう。

「前世」を想定した場合,どちらの「業」が深かったんでしょうね。

いやはやである。

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これは表現者,発信者の「定め」かと。

よく言われるように大人気のカレーやハンバーグでも「マイナス評価」を受ける場合があるわけで。

「マイナス評価」は,大学院,仕事,論文投稿,大学での授業などで散々受けてきたが,匿名性の高い大学の授業の評価がもっともダメージを受ける表現が入ってきていたように思う(「面白くない」と一言だけ書いてあったり「つまらない」とこれまた一言だけ書いてあったり)。

あれも難しいところで,平均点を大きく上回る評価項目があったとしても詳細を見ると必ず最低点をつけている者が何名かいる。

では,その最低点に向けて「改善」をすると,今度は良い点を付けた人にとっては「改悪」になるかもしれず。

また「無駄話が多い」というコメントがある一方で「雑談が面白い」というコメントもあったり。

どうやら全ての人を満足させることはできないというありふれた結論で終わる事案っぽいのだ。

なお,確かに何年もやっていると慣れが生じて多少気にしなくはなってくるのだが,それも完全ではないのが痛いところではある。

まあ,良い評価よりも悪い評価の方に注意を向けた方が生存上有利だったので,人間にデフォルトで備わってきた性質ということで諦めてはいるのだが(まあ,改良の機会もなる場合もあるしね)。

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のではないかと最近思っている。

どうも不平不満の多い者というのは,家以外で自分の価値を100として扱って欲しいという欲があるようだ。

しかし,100(!?)として扱ってもらえるのは,まあ,家の中くらいのものではないか。

家の外では,交換可能な存在でしかない,つまり自己価値は限りなく0に近いということだ。

ここを押さえておかないとストレスフルになるのではないかと思っているがどうだろう。

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私の周りにも小説家になりたいものや放送に携わりたいものなど色々なものが存在したが,いずれも語るだけで,行動には移せず,自称・しがないサラリーマンとなっている。

では,自称・しがないサラリーマンで不幸かというと,そうでもなさそうで,なかなかに幸せそうである。

おそらくであるが,どの仕事でもある程度こなせるシステムが完成しており,その中に入ると,ある程度仕事ができるようになり,仕事ができるとポジティブなフィードバックがあり,例の貢献感や所属感が生まれるのだろう。

ただ個人的に興味があるのは,出世レースの展開だ。

ある程度仕事ができるシステムが整っているとはいえ,その中でどうしても,できるできないの序列はできると思われる。

そうなると,同期に先を越されたり,後輩に追い抜かれたりすることも出てくるだろう。

そういうときどう過ごすのかと思うのだが,これも予想であるが,色々見ていると,たぶん,どこかで諦めが入り,出世云々もどうでも良くなるのではないかとみている。

要するにどう転んでも,年をとるに連れてほどほどの幸せになってくるのではないか(おそらく老化によるパワーダウン(強欲の低下)が大きいとみている)。

何だかそう思うのだが,実際のところはどうなんだろう。

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明日がどうやら国立大学の二次試験(って今はいうのかな?)みたいだ。

そこでふと思い出したのが,私の人生の(主観的には唯一の)やり残しだ。

それは熊本大学に受かることができなかったことだ。

本来は,そこで受かっていれば地元で教員(中学校理科)をやって一生を終えていたはずなのだが,その後,当時まったく予想していなかった人生になってしまっている。

もちろん,後悔しているわけではないのだが(世の中どうにもならないことがあるという感覚を学べた),あの目標に向かう感覚とか,掲示板に番号があったりしたときの嬉しさ(これは予想だけど)を,もう一度味わってみたいという想いはある。

老後に熊本大学に再挑戦しようと企んでいるのは内緒(って書いているけど)だ。

ただそのときもセンター試験が継続していれば良いのだが・・・。

2020年に変わるとかいう話もあり・・・。

それだと何だかリベンジにならないんだよなぁ・・・。

追伸
東大の院に受かったから別に良いではないかということも言われたのだが,どう考えても熊本大学(学部)の方が遥かに難しい。これは院を受験したことがある人なら信じてもらえると思うのだが。科目の数と質が全然違うのだ。

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