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カテゴリ:エッセイ

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のではないかと最近思っている。

どうも不平不満の多い者というのは,家以外で自分の価値を100として扱って欲しいという欲があるようだ。

しかし,100(!?)として扱ってもらえるのは,まあ,家の中くらいのものではないか。

家の外では,交換可能な存在でしかない,つまり自己価値は限りなく0に近いということだ。

ここを押さえておかないとストレスフルになるのではないかと思っているがどうだろう。

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私の周りにも小説家になりたいものや放送に携わりたいものなど色々なものが存在したが,いずれも語るだけで,行動には移せず,自称・しがないサラリーマンとなっている。

では,自称・しがないサラリーマンで不幸かというと,そうでもなさそうで,なかなかに幸せそうである。

おそらくであるが,どの仕事でもある程度こなせるシステムが完成しており,その中に入ると,ある程度仕事ができるようになり,仕事ができるとポジティブなフィードバックがあり,例の貢献感や所属感が生まれるのだろう。

ただ個人的に興味があるのは,出世レースの展開だ。

ある程度仕事ができるシステムが整っているとはいえ,その中でどうしても,できるできないの序列はできると思われる。

そうなると,同期に先を越されたり,後輩に追い抜かれたりすることも出てくるだろう。

そういうときどう過ごすのかと思うのだが,これも予想であるが,色々見ていると,たぶん,どこかで諦めが入り,出世云々もどうでも良くなるのではないかとみている。

要するにどう転んでも,年をとるに連れてほどほどの幸せになってくるのではないか(おそらく老化によるパワーダウン(強欲の低下)が大きいとみている)。

何だかそう思うのだが,実際のところはどうなんだろう。

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明日がどうやら国立大学の二次試験(って今はいうのかな?)みたいだ。

そこでふと思い出したのが,私の人生の(主観的には唯一の)やり残しだ。

それは熊本大学に受かることができなかったことだ。

本来は,そこで受かっていれば地元で教員(中学校理科)をやって一生を終えていたはずなのだが,その後,当時まったく予想していなかった人生になってしまっている。

もちろん,後悔しているわけではないのだが(世の中どうにもならないことがあるという感覚を学べた),あの目標に向かう感覚とか,掲示板に番号があったりしたときの嬉しさ(これは予想だけど)を,もう一度味わってみたいという想いはある。

老後に熊本大学に再挑戦しようと企んでいるのは内緒(って書いているけど)だ。

ただそのときもセンター試験が継続していれば良いのだが・・・。

2020年に変わるとかいう話もあり・・・。

それだと何だかリベンジにならないんだよなぁ・・・。

追伸
東大の院に受かったから別に良いではないかということも言われたのだが,どう考えても熊本大学(学部)の方が遥かに難しい。これは院を受験したことがある人なら信じてもらえると思うのだが。科目の数と質が全然違うのだ。

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これもほんとそうだなぁ。

行動することの良いところは,結果のフィードバックがあることだろう。

「成功」も「失敗」も結果であることにはかわりがない。

考えることは,そこにフィードバックがないのが行動と違うところなのだ。 

ただし,行動するには勇気が要るので,ある意味で,「考える」という劣等コンプレックスを創り出している場合もあると思われる。

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これは・・・。

深い。

可能性100%,困難0%

可能性0%,困難100%

という話はそうそうないので,可能性と困難の間にグラデーションがあるのが「真理」だろう。

執念の有りや無しやもそうかもしれないが,執念がなくても可能性をみることは可能なのではないか。

私は困難の方に目が行くためなかなかそういう発想にはなれないが,意識的に訓練してみる価値はあるだろう。

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この自意識過剰については歳をとるだびに減少していっている感じだ。

私のことを気にしている人はゼロと想定しても構わないだろう。

究極は,私が死んでもまったく問題ないということだ。

さらに言えば,仮に気にしたとしても,時間にして0.01秒くらいなのではないか。

例え気にした人でも「さてお昼は何を食べようかな」と0.01秒後には気になることが変遷しているだろう。

何だかこうかくとニヒリスティックであるが,この辺りからスタートすると,逆説的だがツイートにもあるように人生楽しめるようになるのではないか。

私もまだまだ自意識が残っており,言うほど簡単ではないのだが,自意識を完全になくしてしまうと,失礼等をやってしまう可能性もある。

やはり何事も程度問題なのだろう。

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さきほどクジ運の話をしたが,そのクジが「良い」のか「悪い」のかはやはり引いてみないと判らない感じだ。

よく言われる「やってみないと判らない」ということだ。

どれだけ予測しても,完全な予測は不可能なので,とりあえずやってみる(引いてみる)ことが必要になってくる。

ただなにせクジ運なので,当然「悪い」結果が出てしまうときもある。

そこではクジを引いた結果を引き受けて,その路線を自分なりに「良く」していくのか,はたまたクジの引き直しをするのか,に分かれる。

実はこの判断がとても難しいところだ。

個人的には耐えられないレベルならクジの引き直しをした方が良いように思っている。

しかして耐えられないレベルとは何かという話にもなり,これまた難しい。

食欲か睡眠の乱れか・・・。

う〜ん,何でしょうね。

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この歳になると「勝ち組」「負け組」がだいぶ分岐していっている。

まあ,大半が「どちらでもない組」なのだが,両極は確かに存在している感じだ。

でどちらも見るにつけ,何がどうかといえばやはりクジ運が大きいかなと。

「負け組」も努力しなかったわけではないのだが,仕事や結婚など大きなクジ運が試される場面で,「結果的に」ハズレを引いてしまい,その後,挽回できなかった感じだろうか。

もちろん,本人はハズレを引く気などはなかったのだが,皮肉としか言いようがない。

努力しない「負け組」は本人のせいではないかという話もあるのだが,以前も書いたが,努力しない個体に生まれてしまった(その個体を引いてしまった)クジ運が「悪かった」わけだ。

まあ,運のせいにしているじゃないかという話でもあるのだが,何だかそう感じるのだ。

何とまあ因果な世界である。

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SNS全盛のこの時代,「見て!見て!」がSNSがない時代よりも不特定多数へ拡張しているような気がする。

まあ,ソシオメーター理論では自尊心は他者からの承認の度合いを測るバロメーターということになっているので,それはそれで仕方ないともいえる。

がしかし,そのことによって,「大切な人」への対応(!?)の時間が減ったり,蔑ろにしたりするのは,実は本末転倒なのではないか。

「見て!」の先の不特定多数がいったい何をしてくれるというのだろうか。

ただの暇つぶしで閲覧しているだけ(「いいね」しているだけ)というのが実際のところだろう。

拡張ではなく縮小がポイントなのではあるまいか。

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人間悲しいかな自分が一番カワイイ場合が多い。

そして自分がやっていることは重要だと思っていることもまた多い(「仕事」などが多い)。

ただその重要だと思っていることで,他者との摩擦が生じたり,自身も傷ついたりする。

となると,その重要だと思っていることを脱価値することが必要なのだが,悲しいかなこれがまたできないところなのだろう。

何だか重要だと意義まで意味づけされている場合も多い。

そこを脱価値してしまうと,自分自身もまた脱価値されてしまう感じなのだろう。

難しいところではあるのだが。

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おそらくいつの世にも「普通」という基準が存在しているのではないか。

よく「普通」は存在しないとか言われるが,なんとなくはその基準はありそうな感じはする。

そして,その「普通」を超えていれば,まあ,安心という感じだ。

ただ,全項目が「普通」の基準を超えることは不可能なので,どこかが「普通」を下回る可能性がある。

自信のある者は,その下回っているところを無視できる能力があり,自信のない者は,その下回っているところを無視する能力に欠けているのだろう。

とにかく「普通」基準が念頭にないと,適切な判断はできないはずで,となると「普通」基準を「気にしない」ことは不可能なのではないか。 

何だかそう思うのだ。

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このバランスをとるのはほんとうに難しい。

平和,平和,ノンストレスとかなっている環境は良いは良いのだろうが退屈であろう。

逆に,変化に富んで,ストレスもある環境は退屈ではないが苦痛であろう。

私は「エキサイトメントシーカー」でも兼任している(!?)ため退屈に耐えられない性分だ。

でも,不安定な生活が良いのかというとそうでもない。

やはり難しいところだ(^_^;)。

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というのを時々考えるときがある。

そもそも向上心があると,現状は「足りない」わけで,本当の意味での自己受容は無理だろう。

では自己受容をすると,それで良いのかというと,その状態は正確には向上心がない状態とも言えるわけだ。

よく自己受容とか自尊心は年齢が上がるにつれて高くなることが示されているが,では向上心はどうなんだろう。

予想では向上心は年齢が上がるにつれて低くなっていくのではあるまいか。

まあ,別に向上心がなくても幸せ幸せだから良いじゃないかという話ではあるのだが,個人的にはどちらが良いのか判断がつきにくい感じである。

この辺も老後に答えが出るのかも。

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ここまで生きてきてみると,単純に「勝ち組」「負け組」とはいかないような気がしてならない。

みんなそれぞれに頑張っているというところではないか(この視点からは「頑張り組」があるだけとなる)。

「外見」「能力」「性格」のカードがそれぞれに異なった数字で配らてて人生がスタートし,「運」がそのカードの勝負どころを左右する。

ていうか,そもそも最初のカード「外見」「能力」「性格」自体が「運」という何とも皮肉な状態ではある。

ただ紆余曲折を経ても,それぞれが手持ちのカードで頑張っているのだろう。

またうまくできたもので,そうとう不利なカードだったとしても,普通に暮らせるようなシステムを人間は構築はしてきたみたいだ。

いわんや並のカードをや,というところだろう。

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という発想を持っている人がときどきいる。

これはなるほどなと。

確かに生まれる前は自分は存在せず,死んだあとも自分は存在しない,という意味からもそうであるし,そもそも生まれたときは何も持っていない,という意味でもゼロである。

となると,失う恐怖(身近なところでは「お金」,究極は「命」になると思うが)を克服する一つの考え方にはなりかと思われる。

しかし,完全にはそう思えないところもあり,老後にそう思えるようになることに期待というところだろうか。

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色々な幸福系の本を読んでいると,実証分野では,幸福に寄与する要因は,^堕蠅靴晋柩兢態と健康というお話のようである。

また,どうも個々人に幸福を感じる基準があるようで,それは環境にはあまり左右されず,どの環境でも,その人個人の幸福基準に「戻って」しまう面もあるらしい。

以前から思っていたのだが,ストレス社会だの不幸が蔓延しているだの言われているが,95%以上の人は,少なくとも「不幸ではない」か,あるいは,「何となく幸せ」な状態にあるのではないか(この辺は「サイレント・マジョリティ」でもあるだろう)。

そもそも仕事も数年もすれば「慣れて」くるだろうし,そんなに大きな「ストレス」もないのでは。

家に帰っても,何かしなければならないことがあるわけでもなく,食べて飲んでテレビ見て(ネットして)で「幸せ」そうである。

その辺が40歳を過ぎた私の「幸福」に関する感想だったりする。 

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これは確かにそうかもなぁ。

色々見て見るに,やはり何かを「達成」したときが危ないのではないか。

軽躁状態になり,色々自己アピール度が高まってしまうケースが多いようだ。

そこを平静に過ごせるかどうかがまた美徳の効力となるのだろう。

「達成」もまた幻影,他者から見ればどうでもいいことという認識が必要だろう。

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という言葉があるのかどうか知らないが,何やらつらつらと考えている。

別に効率よくゴールを達成するという意味でのプロセス・マネジメントではない。

よく言われているプロセスそのものを楽しむという意味だ。

40年ほど生きてきて感じるのはゴールは幻で達成したとしても喜びは一瞬で持続性がないということだ。

まあ,喜びが持続すれば,動機づけも起きないわけで,それだと適応上問題があるのだろう。

ということは,巷で言われているように,どうやってプロセスを楽しむかということになる。

究極的にはゴールは死だけだろう。

ただプロセスを楽しむというのは言うやはすく行うは難しであることは間違いない。

何かを達成すれば幸せになるという勘違いが止まらないからでもある。

最近の結論は,日常を(なるべく)丁寧に送ることではないか,というものとなっている。

ゴールに気を取られるとに生活が疎かになりがちだ。

ただもう一方で,ゴール達成の喜びの総量と,プロセスの喜びの総量ではどちらが多いのかということや,では,プロセス自体に喜びを見出すことは本当に可能なのかということも考える。

いや,そうなると喜びではなく,他のものを設定すれば良いのかもしれないなぁ。

「ささやかな幸せ」とか!?

まあ,例によって人それぞれと言われればそれまでの話なのだが。

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自信がない・・・。

なるほど,そういう面は確かにあるかもしれない。

私も楽しみたいところなのだが,いかんせんそういう場所は疲れるのだ(^_^;)。 

「みんな」に共通する話題をと考えるところが間違いなのは頭ではわかっているのだが,ついついそちらへ意識が向かい勝手に疲れている状態なのだろう。

ぽつんと独り状態が怖いというのももちろんあるとは思うのだが。

もしかすると「みんな」が気の合う仲間ならそういうのはだいぶ減るのではとも思うがその辺どうなんだろう。

そうそう共通の話題というのはだいた浅い」話題が多いので,あまり面白くないというのもある(私が心理職を続けていられるのは「深い」話ができるからなのだ)。

私が懇親会とかにほとんど出席しないのはそういうところがあるのだ。

なお,「負け」とかは思っていないかなぁ。

ほんとうは行きたいのはあるので(^_^;)。

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これはほんとそうかも。

わたしなんぞ基本はぐうたらおさぼり派なので,仕事は何としても「好きな」(向いている)仕事に就いて楽をしたいというのがあった。

好きな仕事をしてキラキラではなく,好きな仕事をしてラクラクの方が私の動因だったと思う。

どちらも似たようなものではないかという話でもあるのだが,どちらかというと前者が積極的で後者は消極的であるように思う。

ただ仕事は単独で行うことはできず,集団狩りみたいなものだがら,当人の気分や都合を超えて「やってくる」ことがあるため,なかなかにラクラクなばかりではないということなのだろう。

まあ,狩猟時代にしろ現在の農耕時代にしろ,食べていくためには当人の気分や都合を超えて獲物を取りにいかないといけないし,稲の害虫駆除とかもせざるを得ないわけで,その意味では,働かざるをえないのは,不変なところなのかもしれない。

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歳をとってくると,それなりの地位や技術が伴うため,周りから,よいしょをされるだけの環境だったり,周りにYesマンしかいない環境になってしまうことがある。

もちろん,それはそれで「貢献ステージ」なのだから良いではないかという考え方もあるにはあるだろう。

しかし,そういう環境では果たして「成長」はしているのだろうか。

もちろん「日々気づきが多くあるからそうだ」ということもあるだろう。

ただやはり「成長」するには劣等感を感じるような環境に身をおくことが必要なのではないか。

おっさんステージにいる私は何だかそう思うのだ。

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私は学生時代は1日1冊と言わず,1日2〜3冊は読んでいたような。

専門書とか古典は少なかったが主に哲学,心理学,宗教がメインだったかなぁ(自己啓発書もたくさん読んだ)。

おかげで英文科だった私でも,心理学は修士号と臨床心理士まで行けて(博士号は目指したが取れず),哲学は来年度から大学院にてまた関係することができることになった。

ってか,この流れで行くと,哲学の次は宗教に行くような気もするが,それはまだ不明だ。

しかし,当時の読書は私にどんな影響を及ぼしているのだろうか。

たぶん,読書は,ガシガシ読むことで,様々な気づきを経て,自分自身や世界が明確になっていくような気がする。

たぶん,読書をしながら,自分を読んでいるのだ。

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を最近は考えている。

ネガティブ感情は起こさないまたは直ぐに戻すことが巷ではよく議論されているが,逆にポジティブ感情はどうだろうか。

よく武闘家が勝ったときに喜ばないのは,勝ったと思った隙に実は倒したと思っていた敵が復活してこちらが殺られてしまうのを防ぐためだという。

ということは,ポジティブ感情もそういう隙とか油断という「副作用」がある可能性が高い。

ついつい有頂天になったり,調子に乗った発言をしたり,行動をしたりしてしまいがちなのがポジティブ感情であろう。

まあ,もちろん,ポジティブ感情を感じないようにするのが果たして適切な訓練目標になるのかどうかは難しいところなのだが武闘家の姿勢は見習うべき点があるとみている。

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ポイントは,

>書くことによってほんの一握りの賛同者膨大な批判者・無関心者が生まれることは必至のことである。

というところだろう(「書く」が「発信」になっても同じことだ)。

どんなに有名な書き手でも,いや有名であればあるほど,
批判者は増えることになる。

私みたいに無名でも「スクールカウンセラーが作った尺度より大学教授が作った尺度の方が世間的にも良いからさぁ」と言われることもある(まあ,それもそうだと思うのだが)。

また,Amazonのレビューでも,まあ,散々な言われようのレビューがつくこともあるわけだ。

まあ,批判者の方は「読んでいる」から実は,無関心者よりは,ある意味で良いと言えるのかもしれない(もちろん批判されれば相当なショックを受けると予想されるが)。

ただ,実は
無関心者も存在しており,こちらの方がはるかに多いということになる。

私のブログなんぞ,知り合いでさえも読んでない場合が多い,つまり,そういうことだ。

これもまた批判者同様に,ショックな出来事ではある。

が,しかし,これが書くという行為につきまとう宿命だろう。

ただ,ほんの一握りの賛同者もまた生まれる(無関心者に比すれば桁違いの数字だろう)。

そこは書く原動力になることだろう。

無関心者,批判者,賛同者,三者三様であるが,どこに注意を向けられるかで,書く行為の継続性が違ってくると考えられる。

まあ,私は幸いにして発信する才能が欠如しているらしく無名なので,批判者は表立っては出てこず(そもそも批判に値する意見も発信していないということになる),膨大な無関心者と,ほんの一握りの賛同者で構成されている状態だと思うのだが。

追伸
私がSNS系と連携しないのは,この無関心者の存在に直面するのが怖いという側面もある。

連携していなければ,そのような事態になることはなく,賛同者だけが(もちろん,一見さんが大半なのだが),来てくれる事態となるからだ。

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もし、将来のために今を犠牲にして生きて行くだけだったら、生きている限りずっと人生を楽しめません。目標を達成したら、また、次の目標を設定するという目標達成人間になります。心に平安がありません。

 

だから、将来のために努力するということと、今を楽しむということは、どちらか一方だけでなく、両方あってこそ物心両面での豊かさが実現します。

http://ameblo.jp/shinta1975/entry-12218642601.htmlより

私もこれは日々気をつけていることだ。

最近は,数年後に達成できれば良いかなとか,老後くらいに達成できれば良いかなみたいな感じになったので,「日々が抜け落ちる」ということはだいぶなくなってきたように思う。

しかし,それはこの歳まで生きてきて,目標を色々達成してしまったからであって,色々達成しないうちはそうもいかないのではないか。

ということは,ある時期までは,目標達成人間になることは仕方がないと思われる。

ただ,私が目標達成人間からある程度脱することができたのは,ある意味で,目標達成基準が低かったからこその「芸当」なのかも。

高い人は,そうもいかないだろうな。

目標という実態のない人参を目の前にぶら下げて追いかけ続ける馬みたいなものだ。

ただ,振り返ると,そういう時期が一番充実しているのかもしれないのだが。

追伸
しかし,それにしても私の目標は何なんだろうか。

やはり,熊本の実家で死んで熊本の墓に入ることのような気がする。

あとは特に目標と言える目標はないなぁ(^_^;)。

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例えばであるが,「年収1億円を突破しました!」というエントリがSNS上にアップされたとしよう。

ある閲覧者は「自慢かよ!」と思うだろうし,また別の閲覧者は自身が年収100億とかで1億程度では自慢とは感じないかもしれない。

また投稿者としても自慢でアップしている場合もあれば,別に自慢するつもりはなくただアップしただけの場合もあるだろう。

投稿者✕閲覧者の組み合わせしだいで,そのエントリが自慢になるのか,素直になるのかが分かれそうだ。

まあ,私なぞは,とにかくどんな記事であれアップしたということは,これすなわち「自己顕示欲の発動」と解釈してしまうのだが(^_^;)(もちろん含む私)。

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私のブログの1日のアクセス数はだいたい150くらいである(レギュラーは推定1日20人前後)。

考えてみると,例えばfacebookで友だち300人とかだと,facebookにアップすれば,ほぼ確実にその300人に見てもらえることになる(まあ,そもそもfacebookをあまり見ないものは除かれるとは思うのだが)。

となると,facebookにアップした方が,私のような不人気ブロガーは,より「効率」が良いことになる。

しかし,どうもfacebookに連携する気にならないのは,あそこがポジティブ過ぎるからだろう。

世の中,陽もあれば陰もある。

私はfacebookに上げてあるようなポジティブな意見や記事は恥ずかしくて載せられない方なので(ツイッターで人が言ったこととしてリツイートはしているが),その辺の芸風が異なっているのが原因だろう。

そもそもは幼馴染等に出会うツールとして使い始めたfacebookだが,どうも幼馴染でない人物たちの「活躍」ばかりが派手に更新され続けている。 

ここら辺はリスト化でもして,より幼馴染等の記事を「見やすく」しなければならないところかも。

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とまあ,我欲(見て!見て!),我欲(聞いて!聞いて!),我欲(すごいだろ!すごいだろ!)が迸っている。

もちろん,私のブログやツイッターも同じだ。

なぜに書いたものをアップするのかというところがポイントだ。

本来の日記は書けども公開はしていなかったはず。

それだけ絆の薄い寂しい世の中なのかもしれない。

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というのがときどき言われる。

つまり,家庭や職場など,普段の付き合いのある現実の人間関係のことだ。

一方,ネット上の付き合いは何と言うのかわからないが,対照的に存在はしている状態だ。

しかして,どちらが幸福度に影響があるのか。

これはやはり半径5メートルの人間関係なのではないだろうか(特に不幸の方に影響が高そうだ)。

いくらネットで「やりたいことをやって幸せに」とか「人間関係のコツ」などを発信したり,リア充記事をアップし「いいね」をたくさんもらったりしたとしても,家庭でも職場でも上手く行っていないとなると,不幸である可能性が高い(もちろん例外もあるだろう)。

考えてみれば,ネットの関係などは,嫌なら「ドロン」することも可能だが,半径5メートルの人間関係は嫌なら「ドロン」はそう簡単にはできないし,夫婦不和だったり仕事もできないのに「やりたいことをやって幸せに」とか「人間関係のコツ」もへったくれもないだろう。

やはりメンテナンスすべきは半径5メートルの人間関係ということだ。

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を時々考えることがある。

おそらく「食えない」つまり死ぬ可能性があるからだろう。

逆に言えば,死の覚悟さえできれば,選択できる可能性が高まるわけだ。

そもそも生まれる前はゼロだ。

となると,またゼロに「戻る」だけのような気もするのだがどうだろうか。

まあ,その辺はリスキーな人生になってしまった私の脳が心理的安定のために作り出した無理くりロジックだとは思うのだが。

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