このご時世にアドラー心理学を「言う」意義
あるところで、「認知行動療法、ブリーフセラピー、ペアレント・トレーニングは、どれもアドラーと似ている。そういうときに、あえてアドラーを言う意義はあるのだろうか」という質問があった。
なるほど、たしかに理論や技法は、すでにオリジナルな部分は、ほとんどなくなってしまったといっても過言ではない感はあるが、おそらく思想の分野、つまり、共同体感覚はまだ「被っていない」ところのはずである(本当は、早期回想もそうなのだろうけど)。
昨今の心理療法では、(「不適切」な「認知」を変容することなどを通して)「不適切」な「感情」や、「不適切」な「行動」がゼロになれば、とりあえずは、それで良しみたいなところがある(多くの場合は、それで十分、「適応的」になると思われる)。
アドラー心理学的には、それだけでは、×になる場合もあるところが大きな違いのような感じがしている(そういうことになる場合を書いてもいいのだが、ここでは控える)。
それは、先ほど述べた共同体感覚から派生してきていると思われる責任(あるいは役割、役目)という概念がなせる技である。
P.S.
ちなみに、早期回想は、スキーマ・ワーク、共同体感覚は、ポジティヴ心理学と「若干」被り始めているので、ちょっとアレ(ドレ?!)である。
コメント
コメント一覧 (2)
でも面白いけど。
自分はプラグマティストなので役に立つ技法や理論だけ使いますが、
今度22日に久しぶりにペアレントトレーニングを受けてくるのでいろいろかんがえながら受講して期待と思います。
考えるきっかけをくれてありがとうございます!!
ペアレントトレーニングですか、
いろいろあるから、その場、
その場で、いろいろ学びが
ありそうですよね。
ちなみに、私も(?!)「折衷派」で、
流派を聞かれたときには、
「行き当たりばったり」です。
と答えています。