あるところで、「認知行動療法、ブリーフセラピー、ペアレント・トレーニングは、どれもアドラーと似ている。そういうときに、あえてアドラーを言う意義はあるのだろうか」という質問があった。

なるほど、たしかに理論や技法は、すでにオリジナルな部分は、ほとんどなくなってしまったといっても過言ではない感はあるが、おそらく思想の分野、つまり、共同体感覚はまだ「被っていない」ところのはずである(本当は、早期回想もそうなのだろうけど)。

昨今の心理療法では、(「不適切」な「認知」を変容することなどを通して)「不適切」な「感情」や、「不適切」な「行動」がゼロになれば、とりあえずは、それで良しみたいなところがある(多くの場合は、それで十分、「適応的」になると思われる)。

アドラー心理学的には、それだけでは、×になる場合もあるところが大きな違いのような感じがしている(そういうことになる場合を書いてもいいのだが、ここでは控える)。

それは、先ほど述べた共同体感覚から派生してきていると思われる責任(あるいは役割役目)という概念がなせる技である。

P.S.

ちなみに、早期回想は、スキーマ・ワーク、共同体感覚は、ポジティヴ心理学と「若干」被り始めているので、ちょっとアレ(ドレ?!)である。