当ブログは2005年6月2日に開設しました。タイトルは熊本の実家で猫を32匹飼っていたことがあり懐かしい光景が思い浮かんだのでつけた感じです。*記事と関係のないコメントもご遠慮なく。

学費がタダとは・・・。

となると,あとは研究テーマを指導してもらえる先生がいるかどうかというところか。

まあ,そこが一番「難易度」が高いところなのだが。

なった。

1.文型

2.時制と法

3.同形反復

の内,1が終わったところである。

逆に言えば,1が10回かかったということでもあり,かなり詳細に講義が行われたということだろう。

ここまでで確認テストも既に4回行われている。

残り5回で2と3が行われる。

楽しみだ。

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これはまあ,難しいところだ。

私の年代は仕事も慣れ「無力で不安で仕方がない経験」はまったくもってないほど余裕な状態になっている者が多い。

幸せな状態であると言え,それはそれで何ら問題はないと言えよう。

ただ私の場合は,そういう場合は退屈になる。

さらに言えば,「このまま同じ生活が続くのか,もう俺は死んでいるな」みたいな感じになってしまうのだ。

私があえて,大学院,しかも,学部でも大学院でも学んだことがない哲学系の分野に行ったのは,この退屈を避けるというのが大きな目的なのだ(斜めに構えているわけではない)。

もちろん,その代わりに,やったことがない分野のため「無力で不安で仕方ない経験」を大量に経験することになる(笑)。

がしかし,それがなかった場合の退屈さに比べると,そういった経験をする方が私にとっては刺激があり,「死んでいるな」感覚を感じないで済む。

またこの分野で「余裕」とかなり始めたら,新たな分野に入っていかねばならない。

しかし,「勝っている」分野で,「偉く」なり,みんなから褒められ,批判もなく,批判されても「テメーには分かるまい」と何のダメージもなく,全般に渡って,余裕,余裕となっていている状態というのは,面白いのだろうか

私にはそれは退屈な状態なのだ。

えっ?!なんですって?!

例によって,底辺なお前の妬みだろうですって?!

そうかもしれない。

が出てきた。

別に特別な条件や書類が必要というわけではなく,ようするに私は「入学」ではなく「進学」であるからである。

考えてみると「入学」金なので,外から来る場合を「入学」と良い,内から行く場合は「進学」なので,「入学」金は不要というわけである。

一応,文面で確認はしたが,都合よく解釈している可能性もあるので,ちゃんと問い合わせはする予定であるが,不要となると,かなりオイシイ話となる。

期待大だ。

これはほんとどうなるんでしょうね。

心理職以外の人の意見を聞いていると(まあ,心理職は直接言われたことはないだろうから,知らないだろうけど)

1.ただ話聞くだけで何もやっていない。現に治せていないじゃないか。

2.あんなの私でもできる。

という感じで,「コ・ワーカー」には心理職は不評のようだ(笑)。

つまり,いわゆる組織に属する公認心理師の場合は,未来はあまり明るくないといえるだろう。

何しろ目に見える効果を生んでいないのだから,存在意義の説得力がないのである(笑)。

ただ,心理検査が業務独占になって,配置が必須になったりすれば,雇用は増えると思うが,それと給料が十分になるかどうかは別問題であろう。

心理療法に保険点数と言っても,おそらく回数制限がかかり,結局,従来の「コ・ワーカー」の「不満」を解消することはできないだろう。

やはり,配偶者に食わせてもらいながらやっていくという従来の鉄板形式を踏襲する形が最大公約数となるだろう。

公認心理師試験が一段落したわけであるが,私が密かに注目していたのは,第1回公認心理師試験の受験資格があるにも関わらず受けなかった組である。

みていると,

1.もう年なので,必要ない。

2.今年は忙しい。


というのが理由としてよく上がっていた。

これはどうなんだろう。

個人的には1はまあ理解できる(共感できる)ところかなと(ただし「落ちたら恥ずかしい」と「自白」する人はいた)。

ただ2はどうなんだろう。

「忙しかった」は,よくよく考えてみると「みんなそう」と言えないだろうか(もちろん,それは主観の問題だから,一概には言えないのかもしれないが)。

それを思うと,個人的には何だかイマイチ共感できない感じである。

読者(いるのか?!)の皆さんはどうだろうか。

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する今日このごろである。

私は何本か論文を書いたり,書籍の何章かを担当させていただいたことがある。

となれば,私の死後もそういったものが残ることになる。

が,しかし,である,太陽の寿命が尽きると同時に地球も巻き込まれ終わることになっているようである。

となると,書いたものもまた,分子となって雲散霧消してしまう。

まさに意味ゼロの世界である。

そこで思ったのは,「確かに,究極的には何も残らず,意味ゼロだろう。しかし,書いたこと等も含めて,生活の中の感じや感情を感じたことは事実ではないのか」というところだ。

まだその先を考えるには至っていないが,最近はそんな「感じ」がするしだいである。

こういう感じなので,博士課程在籍者も論文を書けない人は書けず,そのまま消えていく感じになってしまう(死亡率はだいたい70〜80%というなかなかの「難病」である)。

私は卒論で初めて論文なるものを経験したが,全く詰まることなくサクサクと書けてしまったため,論文というものを舐めてしまうことになり,後々苦労することになったのは,以前も書いた通りである。

引用ツイートのような感じだと判ったのは,だいぶあとになってからだ(笑)。

ただ,逆に言えば,私のようにお勉強ができなかった人も「閃き」(=「運」とも言う)があれば戦えることになるという面もあり,そこは皮肉な展開となっている。

さて,私に「閃き」は訪れるのだろうか,また,その「閃き」は学術誌に載ることができるレベルなのだろうか。

う〜む,というところである。

追記
なお,以前も書いた通り,私は研究よりも読書が好きなので,本来の意味では研究者ではないと思っている。

は,では,最強の「ステータス」はどうなるのかということだ。

例えば,心理系で言えば,

東大(ハーバード,ケンブリッジなどでも可)→東大博士(ハーバード,ケンブリッジなどでも可)→心理学研究に論文掲載→心理学研究から賞をもらう→英語の論文も有名誌に掲載→公認心理師→(できれば医師免許)→認知行動療法系の著書多数(しかもよく読まれている)→東大教授(ハーバード,ケンブリッジでも可)→その後も国内外論文量産→開業でも大人気→テレビ出演で一般人にも知られる

辺りが,ステータス的に無敵化しているレベルなのではないか(例によって,こういう人がいたとしても,当の本人が満足しているかといえば疑問であろう)。

逆に言えば,これに至らない場合は,「劣等感」が生じている可能性がある。

例えば,私が公認心理師を取得し,東大修士を取れたとしても,まあ,まったくもってステータス的にはどうしようもないことが判る(笑)。

まあ,こういったステータス面に関しては「いろ,かね,めんつ」のめんつ面を気にする人だけが気にするところであるように思うのだが。

がある。

それは「最近,どう?」や「あれはどうなった?」系のお話だ。

ブログを書いている身からすると「それは既にブログに書いている」話なのだ。

こちら側からすると「では,読んでいないのだな」と実はちょっとショックを受けるお話になるのである。

まあ,もちろんお答えはするものの,実はショックを受けていることにも想いを馳せていただければ嬉しい。

えっ?!なんですって?!お前の記事読んでいるほど暇じゃない!ですって?!

これは失礼いたしました。

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